2008年6月12日木曜日

瓢亭 朝がゆ

今年はイベントに掛かりきりでしたので、イベントとウエダ再興記以外のブログを殆ど書いておらず、ちょっと書きづらくなっています。

という事で、久しぶりに京都ネタを軽く入れさせて頂きます。

昨日、ある会の朝食会で、瓢亭さんの朝がゆを頂いて来ました。



朝がゆと言っても、お粥だけではなく、このたまごが又名物らしいですね。



お粥はダシを入れて頂くのですが、上品な味で大変おいしゅうございました。

朝からこんなものを頂くと、気分もゆったりとして、いつもと違う意欲というか、
良い感じの一日のスタートができました。

それにしても通常は10名強しか参加していない朝食会ですが、今回は瓢亭さんという事で23名の参加でした。

2008年6月8日日曜日

ウエダ再興記(39)~ 再起業計画書

第二の創業と言っている会社はよくありますが、私からすると、単に危機意識を訴える為に言っている所や、今儲かっているけれどそこから変革をしていかなくてはいけないという意味で使っている所が多い様に思います。

ウエダの場合、私の場合は、本当に第二の創業でした。
売上50億円強あったグループを解体し、10年近く実質赤字であったウエダ本社と、2期連続赤字で売上も半減してしまった、ウエダシセツという子会社を統合し、全体では四分の一の規模からスタートするわけですから、掛け声だけで言っていれる
状態ではありません。

長年赤字のウエダ本社に来た時から、やる事はシンプルに、経費を洗い出し、得意、不得意、強み、弱みを分析し、少しでも得意、強みを見つけ、そこにウエイトをかけていく、それだけの事でした。
”オフィスに向けての総合的なコンサルを目指す”そう掲げて、どういう業態にもチャネルを持っているという文具や事務機業界の強みを生かし、そこに独特の繋がりのあるIT系のネタを持ち込んで提案していけば、相手の無い存在になれる、そう確信していました。

しかし一番苦心したこと、今でも苦心していることは人の問題です。
そういう意味ではベンチャー企業などは羨ましく思う時がよくありますが、私の価値観、方向性を示し、それに賛同してくれるやる気のある人々が集まってくれれば、どれ程精神的なストレスもなく、やりすいか?と思います。

しかし一方では、今居るメンバー達が、やる気のない状態、考えない状況にしたのは、今までの経営が悪いのであり、それを行なって来た私の身内に責任があるので、今居るメンバーが駄目だから、辞めさせて新たな人を採るという事は、責任逃れであると思います。
今居るメンバーの価値観、考え方、やる気を変えて行って、会社を変えて行かなくてはならないという事が、最も大変な事であり、この問題にずっと取り組んで来たと言っても過言ではありません。

2001年5月、文具卸をジョインテックスに移管した後、残ったメンバー全員に、再起業計画書というものを作って配りました。
それは、まずは厳しい状況で一緒に頑張ってくれる社員達に、私の考え、どこに向かおうとしているのかを示すべきだと思い、それらに対しての現状分析と課題、今後の予測などを綴りました。

独立した頃は、自分の利益だけを考え、会社も大きくするつもりはなく、拘って有限会社にしていた私が、その後考えてもいなかったウエダに入ることになり、
数々の問題を、四面楚歌の状態で切り盛りする中、父親にまで梯子を外され、馬鹿らしくて辞めようと思った頃には、私が引くと、社員達始め色々な人に迷惑がかかる状況になっており、自分だけ逃げるという事はできませんでした。

この時初めて、自分以外の人達の為に経営することになったのですが、この時から、会社は誰の物か?何の為に経営するのか?という価値観が自分の中で大きく変わった様に思います。
現在社員で共有を図っている、”ウエダの指針”や”ウエダベーシック”というものも、この再起業計画書をベースにしたものですが、この様な考えになって行った事が、その後、京都流を立ち上げる事にも繋がっていった様に思います。

2008年6月1日日曜日

ウエダ再興記(38)~ 合併と第二の創業

2002年10月期にウエダ本社は黒字転換しましたが、まだまだ勝負所は続きました。
子会社である、ウエダシセツがどんどんジリ貧になっていたのです。
この会社は、ゼネコンや工務店の下請け的な仕事で、オフィス内のレイアウト設計から、間仕切り、内装工事などを行っている会社で、長年、良く言えば堅実ですが、売上は約10億円で”少しだけ黒字”を続けていました。

前社長は、コンピュータ代表と共に親会社の”名誉ある撤退”を迫って来た人ですが、自分の意思というよりはその方が得策と踏んでいただけであろう事もあり、2002年1月に任期満了という形で退任してもらいました。

建築など又々、全く分からない世界でもあり、まだまだウエダ本社も立ち上がったばかりで他の事に時間を割く余裕もなかった事、この会社は別運営すべきと思っていた事もあり、後任は専務(現在、ウエダ本社専務)にお願いしました。
しかし、”現場は責任を持つが自分は社長はできない”との事で固辞された為、ウエダ本社の副社長兼、ウエダシセツの代表取締役社長に就任する事になりました。

この頃には長年10億と言っていた売上は7億に落ち込んでおり、その中身も粉飾や、不良債権も含まれていました。
建築業界では、受注時と中間期、完了時で3分の一づつ伝票を切るケースが多く、数字が苦しい際には、決まっているからと伝票を先切りし、それがその通りにならない事から、不良債権というよりは処理できずに、結果粉飾となっている債権がいくつか残っていました。
今後、”伝票の先切りはやらない”という事を徹底した事もあり、売上は5億に一気に萎んでしまいました。

10億で少しだけ黒字を”数字上”続けていた会社ですから、それが7億、5億と一気に萎むと、蓄えもある会社ではないので、こちらはこちらで一気に倒産か、廃業となる状況で、とても名前だけ社長で別運営などと悠長な事を言ってられる状況ではありませんでした。
私も正直な所、いつも自分の知らない事はやりたくないし、他にまだまだ問題に取り組んでいるので、誰かにやってもらいたいと考えるのですが、後退局面の時期は、強いリーダーシップで処理していかないと結局、傷を広げ手遅れになるので、自分で管理、指示できる様に、ウエダ本社と統合合併する事にしました。

この間、実際は2年前から全て舵取りは行なっていたウエダ本社の社長にも、2002年5月に正式に就任し、統合の準備を進めました。
決算期を変更する事もあり、合併後の新会社は創業と同じく5月1日からとすべく4月決算とし、2003年5月~本当に第二の創業というべき、新ウエダ本社をスタートさせる事にしました。
それ故、2002年に黒字展開したウエダ本社も、2003年4月の半期決算で又赤字では合併も認められにくくなるので、黒字は絶対の状況下で、何とか黒字を死守し、息つく間もなく、2003年5月~の新ウエダ本社はこれが失敗すると、今まで行なって来たリストラ計画全てがパーになると言っても過言ではない状況でスタートしたのでした。

2008年5月25日日曜日

ウエダ再興記(37)~ ウエダの存在価値を作る

ウエダ再興に向けて当初から行って来た事は、全て自分の経験に基づく事からです。

全く自由競争の繊維業界に身を置き、自社にアンチ的な先の開拓役を経験した事で、売れる仕組みについて勉強する事ができ、自分で創業して経費感覚を身につけ、色々な商社に出入りして、色々な業種を知り、IT企業の役員で、ネットバブルを経験し、IT系の世界、考え方を見て来たこれら全ての経験が、ウエダの存在価値を考える事に繋がっています。

ウエダに来た頃は卸不要論が叫ばれていましたが、卸が不要というよりも、どの業種の中間業者も総じて、商品を川上から川下に流しているだけで、何の付加価値も生んでないのですから、そんな仕事や会社が存在する意味がないと思っていました。
人間関係や既得権だけで商売するのではなく、実力本意でオリジナルのビジネスを構築しながら、地域に密着し、細かなフォローができれば、どんな時代になっても付加価値を持ち続けると思いますし、それがウエダを再興していく上でずっと考えて来た事です。

唯一他に誇れる、XEROX販売についても、そんな事で喜んでられない理由はそこにあったのと、それに加えて、コピー機ビジネスでは、設置後何年間かの保守、メンテで儲かるという仕組みであるのに、ウエダはその部門が外に出てしまっていて、コピー機業界の常識ではおよそ考えられない、”馬鹿じゃないの?”という構図だったのです。
しかし私には、この仕組みの方が一般ビジネスからすると特殊である様に感じるのと、私の場合、現状の戦力から発想、構築していくので、無いものを恨んだり、羨ましがったりする習性はなく、それがなくてもやっていける様にしなくてはいけない、それがウエダとしての特長になる、そう考えていました。

”XEROXでXEROXに勝つ”これはそんな発想を端的に示した言葉ですが、社内だけでなく富士ゼロックス京都の社長にも、こんな非常識極まりない事を、はっきり言っていました。

コピー機ビジネスは、通常、元々納入した販売店がそのまま継続して販売していくという、暗黙の了解があります。
極端な例では、XEROXをある先に、ある販売店が話を進めていると、まだ売ったわけでもないのに、他の販売店はその先にはXEROXを進められないのです。
そんな業界で私は、XEROX社が直接売っている先に対してまでも、堂々と、ウエダからXEROXも買った方が得ですよと話していきました。

ウエダという独立系の会社がXEROX商品もXEROXから買うより、総合力でウエダから買った方がメリットがあるという様にしないと付加価値(存在価値)はないと思いますし、そういう存在でないと、究極的にはXEROX社から見ても、ウエダはメリットのない会社になってしまうと思います。

”ウエダの存在価値を作る”これがウエダを再興するに当たり、私がずっと取り組んで来た事です。

2008年5月18日日曜日

ウエダ再興記(36)~ 本当の強み

青政研は30人程の会でしたが、頑張っている人が多く、今までずっと一人で悩んで来た事がまだまだ小さいなと感じる事ができたり、実際に皆同じ悩みを持つ社長であったりするので、業種や規模が違えど、腹を割って話する事ができ、大変刺激を受ける事ができました。

しかしこの頃は、経費は最大限に切り詰め絶対黒字転換を図らなくてはならない時期であり、しかも年収600万円の代表取締役社長としては、付き合いも大変でしたが、自分への投資だと思って、貯金を食いつぶして付き合っていました。
私は、特に若い間は自分への投資にお金をかけるべきだと思っていますが、まだまだ厳しい状況下でもあり、私はお酒も殆ど飲めないのですが、この時期に彼らと交流できたのは大変有意義でした。

先日の70周年式典では、多くの青政研関係のメンバーが会場の中ほどで集ってくれていた事も、嬉しい光景でした。

2002年の10月期に黒字転換しましたが、全く猶予はありませんでした。
リストラ前、ウエダはずっと連結で決算を出しており、売上は50億強でした。
大雑把に言って、ウエダ本社が約22億、コンピュータ子会社が約20億、ウエダシセツという子会社が約10億という構図でした。
売上50億で借入金が約8億で一応黒字の会社から、一気に、コンピュータ子会社は連結から外れ、本社内で約14億程あった文具卸を外に出したので、一時的にしろ、ウエダ本社の決算としては売上8億で借入金8億にもなりました。
まして世の中は貸し渋りの状況ですから、まず、リストラ後の黒字という事は最低限であって、そこからも目に見えて改善を図る必要はずっと続いていたわけです。

青政研に入るまでは、8億という借入も、”こんなの何時返せるのだろう?”と思っていましたが、凄い会社、同年代の凄い連中を目の当たりにしてからは、”頑張れば大した事はないな”と思える様になりました。

残ったウエダ本社での強みを構築していく事は急務でしたが、この時点でウエダで誇れる事と言えば、ゼロックスの販売が毎年全国で3位や4位であるという事くらいでした。
通常、これだけ売っていれば、儲かっていても良いのですが、ウエダには全く喜べない特殊事情がありました。
コピーというのは本来、メンテ部隊を自社に持ち、販売した後の保守メンテで儲かる仕組みであるのですが、ウエダの場合これも、30年程前、創業者の時代に、ウエダ本社は売る会社、メンテ部隊は事務機サービスとして独立しており、社長は叔父に当たる人ですが、法人的には全く別会社でした。

当初は、機械だけでも儲かったので、販売する会社と、メンテする会社の線引きが成り立ったのでしょうが、ドンドン機械では儲からなくなり、その線引きの交渉が長年、仕入先を巻き込んでずっと懸案になっていました。
仕入先を巻き込んでと言っても、仕入先からすると、卸売りで売っているだけの販売会社と、メンテをしっかりやってくれている会社では、メンテをやってくれている会社の方が重要であり、全く交渉になりませんでした。

唯一の販売上位のメーカーと言ってもこんな状況であり、上辺の強みから本当の強みに仕立てていかなくてはなりませんでした。
文具卸に入って来た時と同じく、私は”コピー機業界の常識は知りません”そう、内外に話していました。

2008年5月14日水曜日

京都流議定書 その後

今朝は皆和会という集まりの朝食会で、スピーチをする事になっておりましたので、先日の京都流議定書の件について話させて頂きました。
今月末には、私は入っていないのですが、ロータリーでも話させて頂きます。

折角行なった京都流議定書の問題提起を継続していく為に、機会があれば、本意ではありませんが、話もして回ろうと思っています。

今週はその他、式典でスピーチをして頂いた、柏原京都銀行頭取と、ワタベウエディングの渡部社長の所に御礼方々ご挨拶に行って来ました。
お二人とも先日の堀場最高顧問と同じく”あんな式典見たことがない”と大変お褒め頂きました。
それらも全て、京都流を運営してから感じてきた問題意識を、詰め込んだイベントであったからだと思いますし、その発信は、継続していかなくてはならないと改めて思いました。

2008年5月11日日曜日

ウエダ再興記(35)~ 経済同友会と青政研入会

イベントも終りましので、毎週日曜日のウエダ再興記復活させて頂きます。

2001年に文具卸をジョインテックスに移管しました。
そちらを選んだ社員は転籍し、定番に入る商品は原価に近い値段で買い取ってもらいました。
私の兄もこの時点でジョインテックスに転籍しました。
私が、代表権を持つ際に、”このままではウエダは倒産すると思う。それを防ぐには全面的に任せてもらうしかないがどうする?”という話で、この時から兄との間では、私が全面的にやり、その後ジョインテックスに文具卸を移管することになった際に、兄はそちらに移るという話もできていました。

勿論、任せてもらったからと言って、倒産が防げる保証はどこにもありませんでしたが、ただ言えるのは、私が思い切って手を打つしか、可能性はなかったのです。

その年10月の決算は約7200万円の赤字でした。
これは移管に伴う損などまだ言い訳できる面はありますが、この翌年は絶対赤字にはできません。
このリストラの成否を見つめる、銀行、仕入先からすると、リストラ後に赤字になる様であれば、まず強行な対応に変わるでしょう。
以前から、残ったウエダでの数字のシュミレーションはやり尽くしていましたので、残った事業が例年通りの数字を残してくれると黒字には転換する予定でした。
これは絶対死守しないといけない事でしたので、経費は勿論トコトン切り詰め、2002年10月の決算では2500万円の黒字にする事ができました。
多分、ウエダ本社独自の数字で黒字になったのは、10年近くぶりであったと思います。

この時期顧問で残られていた元役員二人から、”経済同友会だけは入られたらどうですか?あそこは一番まともですよ”と言われました。
勿論、ウエダは縮小して終りではなしに、これから再度、立ち上がっていく為にこの厳しい状況に入り込んでいるわけですから、実商売を考えても、顔を売っていかないと駄目である事は分かっていました。
しかし、数字に疎い私の父が足元を見ず、ロータリーや商工会議所の議員活動など身の丈以上の事をやって来たから、ウエダは倒産寸前の会社になり、社員にも多大な迷惑をかけ、私にしても、これだけの苦労を背負わなくてはならなくなったのだと、私は各種の会活動に対して大変悪い印象を持っていました。

ただ、たまたま二人が言われるので、2002年6月に経済同友会には入りました。
入会すると又たまたま瀧定時代の同期が、40歳以下には青年政策研究部会というのがあり、そこに入る様誘ってきました。
同友会の仕組みすら知らない私は、言われるまま入りましたが、そこは同友会所属の40歳以下の会で、多くは跡継ぎの人達でした。

当初私は、”どうせ老舗の坊ちゃん達が、会と称して遊んでるだけやろ”と色眼鏡で見ていました。
ところが、しばらくすると、このメンバーは、仕事でも私の比じゃなく凄い人が何人も居る事に気づき、自分は、ただひたすら切り詰めて展開してきただけで、彼らに全て負けていると思いました。
この青政研(青年政策研究部会)に入った事が、又私自身や考え方を大きく変えてくれたと思います。

2008年5月9日金曜日

イベントの意味合い~堀場最高顧問とウエダ再興記・番外編

今日、先日のウエダ本社の式典でご講演頂きました、堀場最高顧問に御礼に上りました。
部屋に入るなり、”良かったな~あの式典”から始まり、”よくあれだけの人を集められるところまでやったな”と言って頂きました。

3日間のイベントが無事終った事、うちの社員がやり遂げてくれた事も大変嬉しかったですが、堀場最高顧問に褒めて頂いた事は、大変嬉しい事でした。

堀場最高顧問が見て頂いても”あれだけの人”という方々が集まって頂いたという事も嬉しいのですが、実はこれには深い意味があります。

ウエダ再興記の方に書いた方が良い話なのですが、倒産に直面したウエダに来て、
八方塞、四面楚歌の状態の中、次々に重大な決断をしていかないといけませんでした。
ある時私は、多分100人居たら99人が下すであろう決断と違う決断、要は1人しかしないであろう決断をしようとしていました。
机上論ではどう考えても、99人の方の決断になるのですが、危機に直面しているからこその勘とでも言いますか、1人しかしないであろう決断でいくべきだと思っていました。

ただ、それこそ、間違うともう取り返しがつかないわけですから、迷いに迷っていました。
その時に、堀場会長(当時)に相談に行ったのです。

素晴らしい経営者の本はたくさん読んでいましたが、昔から堀場会長の考え方、価値観が私には”その通り”と思う事ばかりでしたので、その同じ方向性の考えをお持ちで尊敬する堀場会長がどう判断されるか、すがる思いで相談に行きました。

”私は、全く外部の方に、会社状況を話しし、相談に来るなんて、経営者としては失格です。しかし、それでも迷っており、勿論、会長が言われた通りにして失敗したから・・などという様な事は一切申しませんので、ご意見をお聞かせ下さい。”
そう言って、事情を説明しました。
約1時間、堀場会長はずっと黙って話しを聞いて頂き、私の説明が終ると、会長は、
”今1時間程の話だけでは分からないけれど、今の話だけで判断すると、こっちやな”
と私が決断を下そうと思っていた100人中1人の方を選ばれました。

その瞬間私は、これ以上ない味方を得た気持ちになり、”有難うございました”と飛んで帰りました。

それから約7年、そういう経緯があったので、”ようあれだけの人を集められるところまでやったな”と言うお言葉には深い意味があったのです。
最高顧問もそういう意味で、ホントに喜んで頂いていました。

そういう事もあってか、ご講演の演目もわざわざ”京都スタイル”として頂き、
式典後多くの方に、”堀場最高顧問の講演はいつもにも増して、素晴らしかったな”
と言って頂く様なお話をして頂きました。

これも70周年という節目を迎えるイベントの、誰にも言っていなかった私の一つの意味合いでした。

2008年5月5日月曜日

ウエダ本社70周年記念イベント

Do you Kyoto? Do you Kyotostyle?イベントについては、できれば写真なども入れてレポートを書いてもらおうと思いますが、
私の方からは、まずは報告を書かせてもらいます。

5月1日の式典の事はあまり触れていませんでしたが、これはこれで大変なイベントでした。
これを呼び水に、色々な立場の人を融合していきたいと思っていましたので、通常の
周年パーティーの様に、従来の取引先に来てもらってというよりは、知事以下、京都の政財界の方々にお越し頂き、問題提起を行なおうと考えておりました。

本当にお忙しい中、山田知事、門川市長、前原誠司衆議院議員、福山哲郎参議院議員、商工会議所を代表して、京都銀行の柏原頭取、経済同友会からはワタベウエディング社長の渡部代表幹事にそれぞれお越し頂き、ご祝辞を頂きました。
又、式典では堀場雅夫最高顧問から、”京都スタイル”と題して約40分のご講演を
して頂きましたのと、パーティーの方では、東儀秀樹さんに、ミニコンサートを行なって頂くという、ここからして盛りだくさんの式典でした。

ご祝辞を頂いた皆様方全員、用意された挨拶ではなく、ご自分の言葉でお話して頂き、しかも勿体無いお褒めの言葉ばかりで大変恐縮致しました。
5月1日と言えば、暫定税率復活した日でありましたが、そんな中、前原さん、福山さんも駆けつけて頂きました。

そういう方々が、駆けつけて頂いた事に感心されておられる方、堀場最高顧問のご講演の内容に感心されておられる方、東儀さんのコンサートで感動された方、色々な方がおられましたが、皆さん、総じて満足して頂けたと思います。

お土産も、通常の周年記念などではなく、このイベント用に作った”京都流議定書”のエコバックに、ウエダで作成した”岩上力の知って楽しい京都学”のDVD,
水谷さんとのセミナーの教本である、”ご機嫌指南書”だけであり、知事以下VIPの方々にも、エコバックを下げて帰って頂きました。

京都はまずもって、こんな政財界のTOPの方々も大きな資産であると思います。
これだけの方々が、ホントに気さくに良いことは良いというスタンスで感じ入ってもらえる、これはなかなか他ではないのではないかと思います。

しかしそれでいて、縦割りになる事が多い、ならざるを得ない構図のある京都に対してどうも歯がゆく、そこがまずもっての問題提起でした。

式典の前、VIP控えで使用していた部屋で、山田知事、門川市長、前原さん、福山さん、堀場さん、に山崎副市長も加わり、話されている光景を見て、何か京都に対して、少しでも一石を投じられた感じがして、大変嬉しい気分でした。

2008年5月4日日曜日

終った~!!!!

昨日、お陰さまを持ちまして、Do you Kyoto? Do you Kyotostyle?イベントが無事終了しました。

この様子などについては、又、ブログで書いて行きたいと思いますが、まずは、ご関係頂いた方々に御礼申し上げたいと思います。

あと、手前みそですが、このイベント、私の頑なな思いから、イベントもやった事ない我々で、広告代理店も入れず、あれだけの面々を集め、ポスター、チラシ、看板からコンテンツまでほとんど全て社員だけで行いました。
この厳しい条件に社員達が本当によく応えてくれたと思います。

何故、そこまで拘ったのかについては又ブログで触れたいと思いますが、そんな中、
殆ど、大きな問題もなくやり遂げられたという事が、何よりも嬉しい事です。

少し残念であったのは、我々の力不足もありますが、本当にとんでもない、イベント、お値打ちもののイベントであったと思いますが、それぞれの価値に見合う集客が行き届いてなかった点であります。
それと、このイベントの全ての発端は、このサイトであり、京都流としてイベントを行いたいというところから考えていった事ですが、京都流ユーザーに向けて、そういう感じにできていなかったかなと思う事です。

でもそんな中、雅撫子さん、aoiさん、laviemarieさんにはお目にかかれて良かったです。

京都流議定書としては、今後も京都に対し問題提起をしたいと思いますので、今後ともどうぞよろしくお願い致します。

2008年5月3日土曜日

Do you Kyoto? Do you kyotostyle?イベント 梅田陽子氏

ギリギリになってしまいましたが、完了しなくてはならないので、書かせていただきます。

セミナー最後は梅田陽子さんです。
梅田さんは、年末、年始にかけて教育テレビでエクセサイズの番組を持たれておりましたが、今や引く手あまたな方です。

と、言いますのも、エクセサイズですが、京大の研究室にも入られていたりしますので、エクセサイズで、メンタルヘルスの問題や、メタボの対策として、学術的とでもいうのでしょうか、色々な角度からアドバイスされておられます。

先日もワコールから、はくだけで痩せるという、エクサウォーカーというメタボ用パンツが発売されましたが、それも監修されています。

うちの会社では、梅田さんが研究されている、うつ傾向が簡単なエクセサイズで改善されるという事について、オフィスでできる簡単な体操の実験場となったりしながら、オフィス向けの活用を考えております。

その梅田さんには、3日の日は親子で来て頂くケースが高いので、お母さんはたまには母親を忘れて、女性として受けられるセミナーを行って頂こうと考えていて、
1時間のセミナーで、1時間後に会った子供が、”お母さん何か変わった”と分かる位の講座を行って頂く予定です。
(尚、その効果には個人差がありますので、効果についてのクレームは受付かねますが・・笑)

と、いう事で、女性必見ですので、今からでも明日お時間ある方は駆けつけてくださいませ。

2008年5月1日木曜日

Do you Kyoto? Do you kyotostyle?イベント 佐竹雅昭氏

イベントは今日からですが、佐竹さんは3日教育のところでお話頂きます。

何故、佐竹さんが教育?と思われた方は、以前の私のブログをご参照下さい。

このイベントの件をお願いして依頼、しばらくお目にかかれていませんが、相変わらず、自分の信念に基づき、活発に飛び回られている様です。

教育問題だけでなく、格闘ファン或いは、フィギアコレクターとしても有名ですが、
そんなお話も出るかも知れません。

お気軽にご参加下さい。

それと、昨晩の<a href="#l">毎日新聞(関西版)</a>夕刊でDO YOU KYOTO?の件が大きく取上げられました。
DO YOU KYOTO の流れについて、説明されていますので、ご覧下さい。
このイベントも開催中です!

2008年4月28日月曜日

Do you Kyoto? Do you kyotostyle?イベント 門川大作氏

市長にイベントの基調講演なんて良いの?と思ってしまいますが、この話をお願いした際は、まだ教育長でした。
実は、今だから言いますが、私は門川氏が市長選に出られるのをいち早く感じ取っていました。

それはこのイベントの基調講演の話を詰めに行こうとしてアポイントを取ろうとした際、秘書の方の対応がいつもとは違い、少し歯切れが悪い感じがしたからです。

その後、お話できたのは、市長選にご出馬されるとなってからでした。
その際も”無役で行かなくて良いように頑張るわ”と仰って頂きました。

とは言え、正直大変心配をしていました。
準備としては、来て頂けるという事ですから、印刷などを進めて行ってますし、しかし、そうは言っても市長になられたら、全く立場は違うので、どうなるか分からないな・・と思っていました。

秘書も市長担当の方に代わりますし、前市長からの予定もあるでしょうし、市長の秘書の方にまで予定を衆知してもらえないと安心はできませんでした。

しかし、その点においても、門川市長はしっかりと、この以前からの約束は遂行できる様にと予定を取って頂き、現職の市長が基調講演でお越し頂くという、我々からしますと、ビックプレゼントになったのです。

私が今までお話させて頂く限り、門川さんの場合、その場だけ取り繕って良い様に
言うという事は一度もありませんでした。
お話して、なるほどと理解して頂いた事には、その場から電話をかけて手配をして頂いたり、その実行力にはいつも頭が下る思いです。
そんな方ですから、約束が履行されないという心配はないのでしょうが、それでも
立場が変わって、ましてや大変なポジションになられたのですから、”ゴメン、無理になった”という事があっても当たり前だと思います。

そんな対応を一つ一つ目の当たりにしていますので、私としても、門川市長になって、少なくとも京都が悪くなる事はなく、必ず良くなるという事は自信を持って言えます。

教育については、実は市長となられて、勿論新たに教育長もおられますので、お話しされにくいので、教育についてズバリというお話にはならないと思いますが、市政全体のベースには教育が重要とのお考えが根幹にあると思いますので、そういうつもりで聞いて頂ければ、興味深いお話が聞けると思います。

2008年4月26日土曜日

Do you Kyoto? Do you kyotostyle?イベント 堀木エリ子氏

堀木さんには今回大変失礼な事をしています。

元々はある方の対談のお相手としてお引き受け頂いたのですが、その後、その方のご都合が悪くなり、堀木さんに見合う対談相手をコーディネートするのに時間がかかりずっと待って頂いていました。
すると又その間、岩上さんからこの時間しか無理と言われていた時間に堀木さんの予定を組んでいた事が分かり、対談で受けて頂いていた話を、講演に変えて頂き、しかも人の流れ的には、良くない時間に変更して頂いたという、大変失礼な話でした。

最近では東京ミッドタウンの作品が有名ですが、今や世界で活躍されるアーティストに何て扱いをするのだと、流石に厚かましい私も嫌悪感を抱いたくらいです。

それでも堀木さんは嫌な顔一つされず、講演を受けて頂く事になりました。

いつも言いますが、京都流で凄いという人は、権威、実力があるのに、決して権威ぶらず、ホントに気さくに対応される方々です。

それが京都流の一番発信したいポイントで、文化=権威というのは、京都流では賞賛しません。
堀木さんの理想形は、自分の作った和紙作品が一般庶民の暮らしの中に入り込む事ですが、これは京都流的に賞賛する方の共通する考えで、暮らしの中に溶け込んでこそ文化だという事です。

是非皆さんには、作品もさる事ながら、堀木さんの人間性に触れて頂きたいと思います。
あの、宝塚顔負けの容姿からは想像できない、”男前”な性格で、堀木さん作品を全くご存じない、ビジネスマンや経営者が話しを聞かれても、”経営者としても凄い”と関心されると思います。

”できる”か、”できないか”の選択肢から”できない”を消すと、後はどうやれば”できる”かしか考える事がない、これが堀木さんの名言です。
これはことある毎に私の説教ネタになっています。

そんな事で、建築、インテリア関係の方は勿論、何かをやりたい女性から経営者まで
幅広い方にお薦めの講演です。


毎週日曜日に書いているウエダ再興記はイベント終了まで休ませて頂きます。
楽しみにして頂いている方、申し訳ございませんが、イベントが終れば再開致しますので、又よろしくお願い致します。

2008年4月20日日曜日

ウエダ再興記(34)~ IT系の手法とリアルビジネス

しかしその後、何度か会議に出席していると、そんな賢い話より、もっとやるべき事があるのではないの?そう思う様になりました。

その頃、Kという会社は知られていましたので、こちらの業界でも色々な人に会う事ができました。
ところが色々な会社に出入りしてみると、Kという会社だけではなく、多くの会社で、夢と資本政策だけで上場を目指すという様な話ばかりで、実体がない状況でした。

実際あった話で、A4用紙一枚だけの企画書で4億円の出資を引き出したという人も居ました。
多くの会社が、凄く賢く、夢があるのに対して、”商売”という観点からすると、かなり幼稚な感じでした。
その後ライブドアの問題で話題になった様に、殆どのところが、上場自体が目的であり、上場して一攫千金を狙っているだけで、事業を展開する為に資金が必要だから上場するという事ではありませんでしたし、会社を使命感で運営するとか、会社は
世の中の為に・・などという感覚は全く持っていない感じでした。

皆、夢とアイデアを脚色し、それをビジネス感覚なしに賢い資本政策だけで上場まで持っていくというスタイルで、上場してお金を集めて、そのお金でリアル(実体のある)のビジネスを買っていくというスタイルでした。
後に堀江氏が近鉄球団買収に乗り出したり、衆議院選挙に出たりという際にも世間では時代の寵児と持て囃していましたが、私は、その頃のIT系の考え、手法を分かっていましたので、”近鉄買収”と出た瞬間から、狙いは直ぐに分かりました。
要は、実体がなくても、上場して時価総額を上げ、その作ったお金で、実際のビジネス(往々にしてこちらの方が市場での価値が低いケースが多い)を買っていき、実際の売上を作っていくという手法であり、皆が持て囃している頃からずっと私はこの手のやり方は納得いきませんでした。
それが法に触れるか、触れないかは別として、それをやりたいのなら、投資家としてやればいいのであって、株式会社という本来は自分のビジネスを行う為に資本を集めるというスタイルを利用して、行なっている事に腹立たしい思いを持っていました。

しかしこれらの世界を見れた事は私にとって、大変大きな事でした。
ウエダの置かれている状況と、このIT系の対比を見ていると、逆にリアルのビジネスを持っているという事の価値観を改めて感じる事ができ、一つ一つをしっかり売るという事の大切さ、難しさを見る事ができ、それ故、倒産寸前の局面があったウエダも、実感として再生はできる、どんなに縮小しても採算さえ合わせば、それは実体のある数字であり、そこに新たな夢のあるネタ、商品を乗せていけば、これは強みになる、そう確信を持てたのでした。

これが言わばウエダ再興におけるホントの意味のリストラ(再構築)の意味合いでした。

2008年4月14日月曜日

Do you Kyoto? Do you kyotostyle?イベント 畑 正高氏

ご存知お香の老舗、松栄堂さんの社長さんです。

畑さんも正に伝統と革新をうまく展開されておられる典型の方だと思います。
畑さんに”香道”という言い方をすると、それは”香道”ではないと仰る事があります。
香道にはお家元がおられるし、自分はそういう立場ではないとの事で、”香道”に対して、畏敬の念をしっかり持たれながら、その普及に役立つ事なら、協力は惜しまないというスタンスをお持ちで、今回のイベントについても、”一つの話に限定せずに、一日でいくつものテーマについて、お香を話しても良いよ?”とまで仰って頂きました。
大変ありがたいお話でしたが、セミナーがお香だけに偏ってしまう面もあり、今回は一コマだけをお願いする事にしました。

それだけに伝統の守るべき所、それを広めていくべき所と、リスンを展開されている様に、全く斬新な違う切り口も見事に展開されており、京都流で考える、伝統産業のあるべき姿を体現されている会社だと思います。

セミナーは一コマだけですが、課外ワークショップとして、松栄堂さんの香房見学と
桜橘庵での聞香体験をセットにした、メニューもご用意しております。
これはイベント一日券にプラス2000円はご負担頂かなくてはいけないのですが、
この桜橘庵という場所も、私が以前、ブログにも書いていた様に聞香体験や、老松さんのお菓子作りをしていた所で、一般の方にはなかなか入って頂ける機会は少ないと思います。
この場所は、儒学者・皆川淇園が日本で最初の大学と言われる、弘道館を建てたという由緒ある場所で、吉田松陰も門下生であったことから、彼も通っていたかもしれないという場所です。

尚、松栄堂さんの香房体験だけご希望の方は無料でご覧になれます。
2日も、ホントに休む時間がない程、びっしりのメニューですが、お香だけを勉強されたい方は、この香房見学、聞香体験をされた後、ハイアットで畑社長のお話を聞いて頂くのも、有意義な一日になると思います。

悩ませてすいません!

2008年4月13日日曜日

ウエダ再興記(33)~ IT企業での役員

同時にいくつもの後ろ向きの処理ばかりを行なっていましたが、本来のリストラ(再構築)という意味からすると、それだけではなく、新しい展開もしていかなくてはいけません。
文具卸の連携先の模索、子会社株の売却、物流事業からの撤退交渉、残る事業の立て直し、銀行交渉、という難題を抱えながら、望みをかけてIT系企業の非常勤役員を引き受けていました。

この頃はネットバブルの真っ只中で、この会社も上場する準備を進めていました。
このオーナーは日本のみならず、世界的にみて、インターネットの黎明期から開発に関わっていた人で、後にネットスケープというウェブブラウザ-の前進であるモザイクにも関わっていました。
このモザイクというのは、後に出て、今や殆どの人が使っているインターネットエクスプローラーと同じ役割をするもので、これがなければインターネットにつなげないのですから、本当にインターネットの世界に革命をもたらしたと言っても過言ではないものです。
そんな実績が認められ、これもWindows95が出る以前には、世界で圧倒的シェアと取っていたユードラというメールソフトの日本での権利を、たくさんの大手会社と争そって権利取得していました。

このオーナーD氏と、彼が米国シリコンバレー時代に知り合ったN氏とで運営していた会社Kというのが、私が関わった会社でした。
このN氏という人も大変な経歴を持っている人で、家族全員日本人ですが家はパリにあり、この当時パリに住んでいたlunaparkさん(京都流ユーザー)から紹介してもらったという経緯で、丁度、一つ一つを売っていくというノウハウを持っていなかった
Kという会社で、繊維ではありながら一応、流通を川上から見てきた点と、独立して色々な業種に向けて出入りし営業をかけていた点を期待され、非常勤役員に迎えられたのでした。

ウエダ内での暗い事だらけの話とは対照的に、ネットバブル真っ盛りのこちらの業界では、正に夢の様な話がゴロゴロしており、これらネタをウエダが販売するという様な事ができれば、”苦境から脱却できる”これに望みをかけて、ウエダ内の事だけでもとても時間が取れる状態ではない中、優先してこちらの会社にいく時間を作りました。
今から考えると、ホントに唯一、夢を見れる時間であったので、これがあったから、モチベーションも続いたのかもしれません。

しかし経営会議では、ベンチャーキャピタルや、証券会社、信託銀行など上場に向けて関わっている会社も入って、MBAでも取得していないと分からない様な、賢い話が喧々諤々行なわれ、海外企業との交渉などにも何度か同席しましたが、
参加者は、それぞれが二ヶ国語以上話すので、通訳なしで当たり前の様に英語で行なわれ、こんな所で役員になっていて良いのか?
と初めは戸惑いました。

2008年4月7日月曜日

京都流議定書イベント 広報活動

”Do you Kyoto? Do you Kyotostyle?”イベントの広報活動が活発になって来ました。

4月5日土曜日の京都新聞朝刊で”京都観光や文化を考えるイベント”という事で紹介してもらいました。
主催は国際日本ホスピタリティー学会となっておりましたが、あれは今回、行政なども協力頂くに当たり、うちからお願いして主催に座ってもらった所です。

今日7日からFM京都でスポットCMを流していただいてます。
私は早速今日、2回も聞きました。
こちらはいきなり、”ウエダ本社70周年併設イベントでは・・”と始まりますので、お聞きの逃しなくお願いします。

又、本日京都リビングFMという局の”ワカバン”という番組で12時~12時半まで、生出演でイベントの案内をさせて頂きました。

これからもちょこちょこお耳にして頂ける事もあるかと思いますが、一番強いのは
”口コミ”です。
京都流の皆様方は是非、こういうイベントに興味ある方には、勧めて下さいます様
お願い致します!

2008年4月6日日曜日

ウエダ再興記(32)~ 色々な経験があればこそ

私も、株式の価格は勿論ですが、それ以外にもいくつかの具体的な条件を出しました。
株式の価格も今であればデューデリジェンス(資産の評価)を行ってという事になるのですが、この頃はそんな知識もなかったので、全て自分で考え、算出しました。

この頃の全ての交渉に言える事ですが、難しい事は分からなくても、原理原則に従い、ホントに死ぬ気になって取り組めば、凄く難しい事を勉強した専門家が出す結論と、かけ離れたものにならず、逆に実際身になる結論を出せると思います。

ディスカウントキャッシュフロー、当時でも言葉は知ってましたが、そんな算出方法よりも、単純に、唯一利益を出していて、しかも毎年コンスタントに見込める収益がある子会社が、グループから外れるわけですので、毎年見込まれる収益がなくなる、という事から考えれば、それを手放す場合は、どの位の見返りが必要か?という話になります。
三年~五年の間には、ウエダ本社を子会社からの収入などに頼らない、自社の本業だけで独り立ちさせないといけない、そう考えると自ずとディスカウントキャッシュフローなど知らなくても、常識的な線は計算できると思います。

株価以外にも、こういう視点でいくつかの条件を出しました。
中でも一番神経を使ったのは、子会社が離れる事により、数字を連結で出す事はできなくなるので、その事により銀行が一気に回収を図って来るであろう事でした。

その為、まず初めに、もし銀行がそういう態度になった場合、U社から借り入れをできる様に話しをつけていました。
(銀行対策の話も以前書きましたが、最悪の事態も想定して、その前にこの話を取り付けていました。)
その後、数ヶ月に渡り、何度も東京へ行き、交渉を重ねました。

この頃同時に進めていた他の問題への取り組みもそうですが、どの問題も半年以上かかっていた事ばかりですので、一つ一つの問題でも本当は十話以上の話は書けると思いますが、話が重くなるのと、公には言えない事もありますので、この交渉についても軽く結論だけにさせて頂きます。

色々な攻防がありましたが、株式の価格、売却後のウエダ本社の懸念される事に対するいくつかの補填の条件等については、私がほぼ考えていた通り、飲んでもらいました。

しかし、今回の売却の目的に一つには、グループ内にあっても無法状態であった子会社とルールの通じる上場会社に入ってもらう事によって、ウエダ本社との連携を図る事がありましたので、売却後の元子会社にも、役員で入れてもらうか、会議への参加を求めていましたが、それは却下されました。

又U社からすると、支配権が取得できれば総額は低い方が良いので、70%の取得にしたいという事で、こちらとしては30%を持っていても、議決権など何の効力もない事は分かっていましたが、あくまで連携が取れるならという事でそれ以上主張しませんでした。

ただ、一番納得はいかなかったのは、様々なルールを無視した子会社代表には、けじめの意味でも、完全に降りてもらうという事を入れておりましたが、U社も色々切れない事情があり、子会社がウエダ本社に内緒で作っていたその子会社の、株主として加わらせ、実際は経営にも関与させるという事でした。

上場会社であるU社がこういうグレーな決着をする事には大変憤りを覚えましたが、私は、その元代表個人を潰す事を目的としているわけではありませんので、これも目をつぶりました。

瀧定時代から含め、梯子を外されたり、裏切られたりという経験を何度もし、ウエダに入ってからはそれこそ命がけで色々な交渉を経てきましたので、この頃には自分がいくら正しくても、大きな視野に立ち、感情を押し殺す事ができる様になっていたのかも知れません。

瀧定に入社二年目位の血気盛んな私に上司が言ってくれた言葉があります。
”お前な、理屈で勝っても商売に負けたら、ビジネスマンとしては0点や”
逃げずに苦労して来た経験は、必ず役に立つと思います。

2008年4月3日木曜日

Do you Kyoto? Do you kyotostyle?イベント 岩上力氏

京都流の皆様には御馴染みの、今や京都検定では唯一の講師である岩上力さんの
セミナーは5月2日の14時10分頃から15時10分頃の予定で行ないます。

岩上さんのお話は本来、試験という側面の京都検定ではなく、京都の心を知るという、京都検定の元々の理念に沿ったものです。
しかし、それが検定向け講座では、本来の伝えるべき話ではなくなってしまう面がありますので、今回は、検定とは離れた、京都の心についてお話頂く予定です。
検定向け講座では聞けない、背景的な事についてのセミナーを、是非、お見逃し無くお願い致します。


又、ウエダ本社では岩上さんと、京都のくらしの12ヶ月として、京都で残すべき、伝えていくべき、1月~12月の京都の暮らし、行事を、分かりやすく解説して頂いたDVDを制作、販売していく予定です。
こちらも合わせて楽しみにして下さい。

決して、専門ではないので、画像などでも素人っぽい部分もあるかと思いますが、
だからこそ、伝えたい話をしっかり押さえた、映像のプロではできない物に仕立てていきましょうと、岩上さんとは話しています。

2008年3月30日日曜日

ウエダ再興記(31)~ 株式の売却交渉

U社とは具体的に子会社の株式売却に向けての話を進める事になりました。
U社は、役員が担当として交渉役になりました。

最近はM&Aも一般的になり、小口の案件でも手掛ける所が多いのですが、この頃はまだ一般的ではなく、どこかに頼むという事も分からず、これも勉強しながらの交渉でした。
ただこの頃、私は上場を目指しているIT系企業の役員にもなっており、周りにもビジネスプランを立て、実像がないビジネスでありながら、高値で株式を売っていくというIT企業が多くありましたから、株の試算方式にもいくつかの方法があり、見方によっては、全然違う価値になるのだという知識はありました。

U社の担当役員には、ウエダグループの背景と、以下の様な、株を売却する理由と懸念点を話しました。

売却する理由としては

①グループでありながら全く統治されておらず、このままではウエダの改革が進まない事。
②グループ内では感情的や自分達の思惑ばかりの話で、”会社”としてのルールが通用していなかったので、却ってU社に入ってもらう事により、”会社”としてのルールは通じる様になると思った事。
③このままいけば子会社も分裂するであろうが、分裂後は残った方の業務に私も忙殺されるであろう事から、この場合もウエダ全体の改革には時間がかかるであろう事。
④株式を売却したお金で、物流事業の負債(ウエダの責任分)を一掃しようと考えた事。
そして、
⑤社員約100人という中途半端な規模のコンピュータ子会社や社員達にとっても、U社の傘下に入るという事はウエダの傘下でいるよりは、長い目で見た場合、この時点での選択肢としては得策であると考えた事。

などで、懸念としては、

①グループ連結で数字面の公表をしていたが、このコンピュータ子会社が殆ど利益を出していたので、これがなくなると一気に赤字になる事。
②借入金もグループ全体で行なっている形なので、その売上からすると低いが、実際は長年赤字のウエダ本社の借金で、単体になると、全く売上に対して多すぎる借金となる事とそれが皆に衆知になる事。
③一期が赤字になるだけではなく、グループでの今後の継続的な収益も見込めなくなる事。
④子会社から業務委託費的に上げていたウエダ本社の実際の収入もなくなる事。
⑤これらから銀行から、一気に貸し渋り、貸しはがしの対応をされる事が予想される事。
⑥唯一ウエダ本社の優位点であるXEROXの販売も、子会社が離れると、販売数が落ち、ウエダ本社の優位点は全くなくなってしまう事。

これらを話し、何度かの交渉の後、U社の条件の提示をもらう事になりました。

しかし、出て来た数字は、いくつかの評価の中で、この時の状況下では低くなる方式でのものでした。

2008年3月26日水曜日

Do you Kyoto? Do you kyotostyle?イベント 千宗屋氏

5月2日のお昼から、武者小路千家若宗匠の千宗屋氏にお話頂きます。

今回お願いに行った際、初めて官休庵に入らせて頂きました。
私は、”伝統文化、伝統産業を決してその価値を下げずとも、もっと色々な人々に知らしめる方法がある筈で、色々な立場の人々に草の根的に参加して頂けるイベントにしたい”そう説明させて頂いた時、若宗匠がすぐさま仰ったのが、私は、”伝統文化””伝統”と言われる事自体に、あまり心地よさを感じていないのです、という事でした。

これを聞いただけで、今回のイベントに是非ご参加頂きたいと思いました。
私などの様な不躾者が、それだからこそ、色々な事を気にせず、単純な問題意識から、京都流~そして今回のイベントまで展開してきたのですが、若の様な、本流のど真ん中におられる方が、自ら、伝統と言われていては駄目なんだという事を言われるのですから、大変心強く思ったわけです。

お茶も昔は、生活に密着していたもので、それが今では、別世界のものになってしまった。
本来文化というものは、生活に密着しているもので、祭り上げられるものではない。
かと言っても、今の茶道をそのまま生活に密着させるというのも無理があり、その辺りをどういう折り合いをつけていくのかが、茶道や、伝統文化と言われるものの、
考えていかなくてはいけないところだという事をお聞かせ頂きました。

本流の真ん中におられて、この様なお考えで、展開していこうとされている方々が、垣根無しで集まっていく事ができると、面白いと思いますし、このイベントがそういう切欠になればと思っています。

若宗匠を評しては、大変博学な方で、どんな話でもお話頂けるという事でしたが、今回はまず三千家の成り立ちから、お話して頂く事になるかと思いますので、皆様どうぞお楽しみにして下さい。

2008年3月23日日曜日

ウエダ再興記(30)~ それぞれの選択

具体的に話が進んでいくと、最初の話とは違う事も出てきました。

全員受け入れてもらうという社員も、営業は地元に残れますが、仕入れや営業サポートなどは、東京に一本化される為、女性社員はこの時点で辞めなければないのが、実質的な話でした。

途中から、営業譲渡ではなく、あくまで商品を買い取り、各社で契約を終えた社員を引き継ぐだけという事になっていましたので、移行する社員にはその時点で、退職金を用意しなければなりませんでした。

社員達に話しても良いとなったのは、移行する社員の名前を提出しなくてはならない
1週間前でした。
全社員を集め、この間の経緯、P社が作る新会社の概容、残るウエダ本社のこれからの方針を説明しました。
社員達に酷であったのは、その時初めて説明を聞かされ、人生のかかった決断を1週間以内に、結論を出してもらわなくてはならなかった事、東京でしかポストがない業務についている人は、その時点で、東京に行くのか、辞めるかの選択しかできなかった事です。

私の方もきつい事はありました。
退職金については、遅かれ早かれ払わないといけないので、大きな問題ではありませんでしたが、残るウエダ本社も、順風どころか、いばらの道でした。

大幅な規模縮小と、今までグループ経営などと言ってベールに覆われていた(隠していた)数字が表に出るので、瞬時に立て直さないと、倒産に追い込まれるであろう事は予測できました。

しかしそういう状況の中でも後の体制を全く組めませんでした。
ホントは、こちらから何人かに向けて、ウエダに残ってくれと言って、その人達を起点に早急に組織、運営を考えていかなくてはならないのですが、皆にとっても大きな人生がかかっているので、変に勧誘などせず、自分の考えだけで選んでもらう様にしました。
1週間しか、選択の余地を与えられなかった、せめてもの償いでもないのですが、こちらの希望など言える権利はないと我慢しました。
ただ、猶予はありませんから、この1週間の内には、誰が残った場合はどうする、という何十種類ものシュミレーションを考えていました。

何も策の打てない1週間というのは大変長く感じました。
その間に、東京でしか受け入れのない、設計を担当している社員と、営業サポートをやっている女子社員が付き合っていて、しかも結婚を考えているという事を聞き、この二人が行くというなら東京で採用してくれる様交渉したり、P社には一人でも多くの人が良い形でいける様にいくつかの交渉をしていました。
文具担当の中堅社員が新会社には行かず、辞めようとしている事を聞き、よく考える様に説得したり、この間は社員の行く先の事で奔走していました。

金曜日夜だったと思います、皆の希望が出揃いました。
新ウエダ本社では残す人数も言っていた事もあり、人数についてはほぼ予定通りでした。
残る事を希望した名前を並べ体制を考え出していた頃、事業部を統括していたS部長から電話がありました。
彼は”自分は上司として失格です。皆に期限を切っておきながら、自分は新会社に希望を出しましたが、まだぐらついています。
自分だけ抜け駆けしている様で心苦しいですが、もう一日だけ待ってもらえませんか?”というものでした。

私は特例という事が嫌いですが、文具業界の常識は知らないと言って展開していく私と、文具屋さんの間に入って、辛い役割もやってくれていた事、私の何倍もウエダへの愛着を持っていてくれていた事などを考えると、”Sさんは特例ではなく
ウエダへの貢献を考えると、一日長くする事は不公平ではないと思いますから、明日まで考えて下さい”そう言いました。

翌日S部長は、”一日頂きましたが、やはり新会社の方へ行かせて頂きます”と連絡がありました。

”ウエダの都合で行なった事であり、それぞれの人生だから、やむを得ない、ウエダを選択してくれたメンバーで考えよう”と思っていましたが、やはり皆が去っていくという事を目の当たりにするのには、寂しい思いがありました。

2008年3月19日水曜日

Do you Kyoto? Do you kyotostyle?イベント 山折哲雄氏

今回のイベントでご出演、ご協力頂く方々の横顔について、イベントに向けて綴っていきたいと思います。

まず、第一回目は、5月2日の伝統文化、地域産業の日に基調講演をお願いします、山折哲雄先生です。

今回のイベントでご出演頂く方の共通項は、凄い方なのに、決して権威を振りかざさず、我々にも目線を合わせて頂ける方という事ですが、これは、私自身の、人を尊敬できるかどうかのポイントで、いくら凄いという人でも権威ぶって、偉そうにしている人は、尊敬できません。

京都流のベースは、権威かどうか、格がどうかという事ではなく、真に京都や、文化、伝統産業、そして日本について、自分の私心からではなく、考えておられる方々を支持するというもので、そんな方々ですので、今回のイベントも二つ返事でご協力頂いたのだと思います。

山折先生などはその代表で、あのお立場でありながら、色々な事に対して、寛容に受け入れられる度量を持たれた方だと思います。

以前、先生のご講演で聞いて、深いなあと思った話があります。

それは、先生が”私は京都タワーに上るのが好きでね・・”と仰ったのです。
色々景観で言われる京都タワーがお好き??と思って皆が不思議に思った後、先生は
”京都タワーに上ると京都の景色から京都タワーが消えるのです”と言われました。
思わず、うまいブラックユーモアだなと思ったのですが、続けて”京都タワーに上ると、これだけの人が住む都市で、山に囲まれ、川が街中を流れ、これだけ風光明媚な都市は世界でもここしかないという事に気づかされるのです”と続けられ、思わわず、”深い!”と感嘆の声を上げたくなる様なお話しをされました。

このイベントのご説明に上った際も、Do you Kyoto?の話をご存知なかった様で、環境に取り組まれている人の間でKyotoが動詞的に使われているという説明をさせて頂くと、先生は、”これは今日は勉強になった”とホントに気さくに
仰っておられました。

2日はどんなお話をして頂けるのか?今から楽しみです。

2008年3月16日日曜日

ウエダ再興記(29)~ 極秘裏での準備

P社に行くと確かに、その様な動きがあるとの事でした。
それは簡単に言うと、インフラはアスクルと同じく、物流、受注センターなどを全国で一本化するものですが、アスクルと違うのは、営業を地元の各卸が行い、フェーストゥフェースで展開すると言うものでした。

当然、ウエダには声をかけたがったが、U社と密接な関係なので、最初から諦めていたとの事で、大変驚きと共に喜んで頂きました。
既にこの時点では、近畿エリアで二社が話を進めているとの事で、ウエダが入れば、近畿地区はこれで募集するのは終りになるだろうとの事でした。

条件的には、合併ではなく、営業譲渡であり、全面的に譲渡しても良いが、自社で残したい事業は残してもらっても良い、最低文具部門だけを持ち込んでもらいたいというものでした。
合併ではないので、負債は引き継いでもらえませんが、持っている在庫の内、新会社でも扱う商品は、買い取ってもらえる事、文具に関わる人は皆取ってくれるという事で、リストラのポイントの一つである、文具卸を外に出し、小さくなっても
採算を合わせ、その地盤、ネットワークを生かして、新たに構築して行こうとしていた私に取っては、大変良い条件でした。

”これしかない”、そう思い、二回目か三回目かの話の際に、この新会社に入るという事を意思表示しました。
その後、新会社入りの表明をしている会社を集めたミーティングが行なわれ、そこで初めて、全国の卸でどこが参加するのかを知りました。
ウエダとも大変馴染みのある会社、ウエダと同じくU社と大変深い付き合いをして来た卸もありました。

参加する会社に向けて構想がドンドン明かされて行き、作業も具体的に行なっていかなくてはならない状態になりました。
各社の移行する売上、在庫(商品)を登録し、想定される社員の年収など色々な数字資料を提出していかなければなりません。
これらの作業になってくると、現場のメンバーに関わってもらわなければ進まない為、この時点で、営業部長と経理部長の二人に事情を説明し、極秘でP社移行への準備を行いました。

私の方でも残るウエダ本社のシュミレーションをしました。
勿論、今までこんな事を勉強した事はありません。
いつもカバンの中には、色々な数字資料を入れ、移動中は殆ど、売上、利益、経費などのシュミレーションを自分なりに色々な角度で考えていました。

当時ウエダ本社にはまだ50名程の社員がいましたが、私が考えた計画では、残る新ウエダ本社は、営業8名、営業事務の女性1名に経理などを加え計15名程のものでした。

果たして皆が理解してくれるか?
後に誰が残ってくれるか?
残ったメンバーでどう構築していくのか?
これだけ一気に規模を縮小する事(グループ全体だと、4分の1程の規模になる)について、銀行、仕入先は本当に理解してくれるのか?
何から何まで誰にも相談できない事ばかり、一人で決断を下さなくてはいけない事ばかりでした。

2008年3月9日日曜日

ウエダ再興記(28)~ 合併先の模索

全てが難題ではありましたが、リストラ計画も何も、全てはウエダ本社を再生する為ですから、その根幹は永年続いていた赤字から、脱却させる事です。

ウエダに来た頃は、ウエダ本社単体の売上は約22億円程でしたが、子会社からのロイヤリティー等を除いた本業では、最大時には2億円弱の赤字でした。
以前にも書きましたが、文具卸では、数十円のものも多くある中で、在庫も2億円程あり、時代遅れのオフコンで管理していて、在庫数字は合わなくて当然という状況でした。
倉庫などにある机の引き出しを開けると、いつの物か分からない伝票が出てきたり、処理されていない返品があったり、在庫が合わない事をしょうがない等としていると、全てがルーズになり、初めは悪気のない行為から、不正などにも繋がっていくのだと思います。

会社には沈滞ムードが蔓延していて,”皆こんな所で仕事してると健康な人でも体悪くなるやろ?”と、社員達に言いましたが、ホントにそう思った程、実際、空気が ”よどんでいる”という状況を、生まれて初めて経験しました。

そんな状況から脱却する、しかも、時間をかけている余裕はないとなると、私は文具卸は合併させるしかないと思いました。
世の中は卸不要論が叫ばれ、業界ではアスクルが登場し、文具卸を単独でやって行っても生きていけない、そう思いました。

初めは、物流事業を行なっている5社で合併するのが、一番実体にも合い、良いと思いましたが、後に2社が倒産した様に、それぞれの懐事情もかなり違っていましたから、5社が一緒になるというのは、早々に無理だと分かりました。
この頃は、全国的にも色々な再編の動きがあり、永年守られて来た流通三段階も崩れようとしていました。

その頃、子会社株の売却の交渉に行っていたU社会長から、色々な動きがあるが、ウエダは物流事業のお荷物があるので、それを含めても面倒を見てもらえる可能性があるのは、一つのグループしかないのではないか?というアドバイスを受けました。
と、当時に、もしくはP社が全国の卸を束ねる様な新業態を考えているらしいので、それ位しかないであろうと言われました。

P社というのはこのU社とは、仲が良くないのは業界では皆知っている会社です。
しかし、この話が面白そうだと感じた私は、瞬間的にU社会長に対して、ウエダ(業界ではU社の昔からの代理店として知られている)がそんなP社が立ち上げる事業に参加して良いのですか?と聞きました。
すると、U社会長は、”そりゃまず、ウエダが生き残れる事が先決だろう”と言われました。

後から聞くと、このP社の動きに参画したU社と懇意の他の卸は、これに参画する為にU社の上層部に相当根回しに通われたそうですが、私の場合、この瞬間の話で、根回しは一切行う事もありませんでした。

それで堂々とP社の門を叩いたのでした。

2008年3月6日木曜日

Do you Kyoto? Do you kyotostyle? イベント

各界のTOPの方々を集めて、京都流議定書として京都流とウエダ本社が、問題提起として行うイベントですが、現在確定しているイベント(ゲスト)だけでも以下の通りです。

1日はウエダ本社の周年イベントを行いますので、これはご案内させて頂いた方のみですが、この日の午前中からは、雑誌ソトコトさんによる環境セミナーなどが開催され、これについてはどなたでも参加して頂けます。

この周年イベントは、従来の会社周年事業とは全く異なり、山田知事、門川新市長を始めとした行政の方々、商工会議所、経済同友会などの経済界の方々にお集まり頂き、このイベントの問題提起を知って頂こうとするものです。
又、ゲストには基調講演で堀場雅夫氏、
パーティーでのショーには東儀秀樹氏と、
ご案内させて頂けない方からはお叱りを受ける様な素晴らしい方々にお越し頂き、
花を添えて頂きます。

しかし、一般の方向けの2,3日のイベントも大変豪華で、2日は伝統文化、地域産業のテーマですが、この日の基調講演は山折哲雄氏、
講座では武者小路若宗匠の千宗屋氏、
松栄堂の畑正高氏、
京都検定の岩上力氏にお話頂きます。
又、和紙アーティストの堀木エリ子氏には、素晴らしい方との対談を予定しております。
イベントでは、茂山正邦氏による狂言ワークショップ、
今様謌舞楽会グループによる、今様源氏物語なども行なわれます。
又、職人さんによる技の実演、映像コンテンツやお茶席なども用意し、”普段縁のない人や京都を知らない人にも京都を感じてもらう日”をコンセプトに行ないます。

3日は教育(親子)をテーマに門川大作京都市新市長に、前教育長としてのお立場から、基調講演を行なって頂きます。
この日は親子でそれぞれで楽しんで頂く事もコンセプトに、
お父さんには格闘家の佐竹雅昭氏のセミナー、
お母さんには、教育テレビでエクセサイズなどを担当されている梅田陽子氏のセミナーを開催致します。
イベントでは、英語で遊ぼうで御馴染みのエリックジェイコブセン氏による
エリックショー、
マンガミュージアムで人気の紙芝居の第一人者安野侑志氏による紙芝居ショーも行なわれます。
又、漢検、英検などのDSを含めた紹介や、DSを使った教育事例紹介など、民と官、公立と私立、府と市が一体となり、”子供達が教育や文化、環境に触れる事をサポートする日”です。


これらはそれぞれ一日券として、大人3000円、中学生以上1000円、小学生500円
の有料イベントですが、この料金にはエコバックが含まれ、決定ではありませんが、バスの一日券もつけようかと考えています。

ハイアットさんでは、小学生未満のお子様はランチ無料にして頂く企画もあります。
これだけのイベントですので、有料でも黒字になる事は無いと思いますが、もし黒字となった場合は、その全額を京都の森林保全活動に寄付させて頂きます。

伝統文化や産業、教育を考えるイベントに参加する事が、エコバックを持つ運動を広げる、森林保全に興味を持って頂くという環境運動にも繋がり、その事が自然豊かな京都のコンテンツを守り、観光に繋がるという循環を考えておりますので、そういう意味でも多くの方にご参加頂きたいと考えております。

この他、この日に合わせて、同時開催して頂く、体験学習講座など、まだまだご協力頂いているところ、企画はたくさんありますがとても書き切れません。

今後逐一、京都流とウエダ本社HPなどでも発信して参りますので、是非チェックして頂きたいと思います。

2008年3月5日水曜日

京都流議定書

ウエダ本社では、創業70周年イベントと併設して、
Do you Kyoto? Do you kyotostyle? イベントを、平成20年5月1日~3日の3日間
ハイアットリージェンシー京都で開催致します。

周年事業を絡めることにより京都の経済界の方々にお集まり頂くのと共に、京都流の関係から、伝統文化、伝統産業、そしてスポーツも含めた教育関係の方々が、草の根的に関わって頂くという、他には類のないイベントです。

今年に入ってから、このイベントの件で、駆けずり回っており、実は大変忙しい日々を送っております。

ホントは、このイベントの事で、色々な方々にお会いしておりますので、ブログにも書けることはたくさんあるのですが、時間がないのと、決定事項ではないので、書けませんでした。

各界の方々のご協力により、大変凄いイベントになって来ましたので、どうぞ楽しみにして下さい。

1日はウエダ本社の周年事業と環境セミナーなどですが、2日は伝統文化、地域産業、3日は教育というテーマで、有料ですが、一般の方々も入って頂き、大いに楽しんで頂けるイベントですので、是非、京都流の皆さんはお越し下さい!

今の企画全体を書いた方がインパクトがあると思いますので、参加メンバーなどにつきましては、次回まとめて書かせて頂きます。

じらしているのではないのですが、今から書く元気がありません。すいません。

2008年3月2日日曜日

ウエダ再興記(27)~ 退路を断っての筈が

私はよく、綺麗ごとを言う人を信用しないと言います。
口では何とでも言えるのですが、実際にやる事が大変であり、口だけの人は大抵、自分が困ると人を裏切ります。
又、人間的に良い人がビジネス上悪い人になるケースが多いと言うのも私の持論です。

この物流事業脱退交渉の中でも、忘れられないワンシーンがあります。

前回も書いた様に、他の4社からすると、心情的にも、実質的にもウエダが脱退するなど認められるわけはありませんでした。
その立場は、私にも理解できていましたが、私の仕事は、ウエダを再生させる事であり、まずは会社と社員を守る事です。

4社の内、組合の理事長も務められた社長が、”我々5社は、退路を断ってこの事業を行なって来た、それなのにその中心であるウエダが、それを脱退するとは何事だ”と言われました。
私はその瞬間に非常に腹が立って、言いました。
”あなた方が、ご自身の退路を断って行うのは勝手です。
しかし、それぞれの会社には社員が居るのに、会社の退路までを絶つという権利は、いくら社長でも 無い筈です”

一番の若僧に言われ、憎憎しかったと思いますが、誰も反論はありませんでした。

その後、中心のもう一社(S社)の社長が、ウエダの立場を認めてくれて、ウエダの負担分を払い脱退させてもらう事になるのですが、ウエダが抜けてから、1社は倒産し、1社は廃業しました。

倒産した1社の社長は、中心であったS社社長には散々世話になっていたと思いますが、前日の夜まで普通にS社社長と会って話していたのに、一言の相談もなく、別れた後直ぐ、倒産手続きをしたそうです。

廃業したもう1社は、創業が奈良時代とも言われる老舗の会社で、私に”退路を断って”と言った社長です。
その”退路を断って”とまで言った社長は、自分は海外に持つ個人資産を残して、創業千年以上とも言われる会社をあっさり廃業させて逃げて行ったのです。
ウエダ以外の4社は退路を断って、一心同体で結束していた筈なのに、連携していた残りの2社に迷惑をかけてあっさり逃げて行ったのです。

これなどは本当に綺麗ごとを言う人は、信用できないという典型だと思います。

S社社長が認めてくれた事から、ウエダはその時点までの責任分とウエダが撤退して事業縮小になる事に対しての補填金を含め、億を優に超える違約金を払う事で、ウエダの連帯責任を外し、脱退をさせてもらう事になりました。

私は、キツイ事をはっきり言いますが、それは特にビジネス上では、裏切りたくない、嘘をつきたくないから言うのです。
この問題では、皆からは嫌われていたでしょうが、最低限、裏切らない為には、会社を潰さない事、その為には多大な違約金を払ってでも、脱退させてもらう事が損失が少ないと判断したのです。
(実際、倒産すると、その会社の負債も、残りの会社に割り振られる事になるのですから。)

ただ、これが出来たのは、同時に進めていた、コンピュータ子会社の株式の、売却交渉の目処が立ってきていたからではありました。

残られた2社については、ウエダは責任分を払ったのだからと、違約金を払った後は不問にしてくれましたので、感謝もしておりますし、その後うまく縮小化され、設備も貸しながら返済もされておられるので、本当に良かったと思っています。

2008年2月29日金曜日

新・京都迷宮案内

パキラのブログでも既にコメントを入れて頂いたりもしていますが、28日の”新・京都迷宮案内”でウエダ本社が出ておりました。

前回の浅野ゆう子さんの”女刑事みずき”の時よりも、オフィスがしっかり映って
いましたし、何よりも、五条通り北ビルにある営業部の商談スペースから、窓を通して、京都タワーと共に、南ビルの事務機のウエダの看板が結構しっかり映っていました。

私は会社で、仕事をしながらテレビを見ていましたが、映った瞬間に、ある懇意にしている会社の社長さんから、メールが入りました。

流石テレビの効果って凄いですね。

そう言えば、先日の京都市長選で門川さんが当選を決められ、事務所に入って来られた際に、私が結構アップで映ったらしく、その際も、新市長が入って来られ、会場が盛り上がっている際に、私の携帯にはたくさんのメールが入って来てました。

これだけ効果があるなら、テレビ、映画関係の方、京都でオフィスを映す際は、いつでもをウエダを利用して頂いたらと思います!

2008年2月27日水曜日

XEROX表彰式

先週金曜日は、富士ゼロックスの表彰式が帝国ホテル東京で開かれました。

以前もアピールさせて頂きましたが、これは昨年度の年間販売の表彰で、ウエダ本社は2年連続日本一を達成する事ができました。

驚いたのは、4社の方が、日本一の名刺を下さいと来られた事です。
会社全体では悩みだらけで、全然大した事はないのですが、やはり一番というのは
それだけ価値があるのだと再認識しました。

又、以前コメントをお寄せ頂いた方も挨拶に来て頂きましたが、最近、再興記をご覧頂いている方も多くて、私の知らない方々が、私の考えなどを知って頂いているケースも多くて、何か不思議な感じがします。

そんな風に色々注目して頂くと、改めてしっかりやらないと、という気になる良い機会をであったと思います。

2008年2月24日日曜日

ウエダ再興記(26)~ 物流事業からの撤退交渉

いくつかの難問を同時に、しかも四面楚歌の状態で対していかなくてはいけませんでしたが、その中でも大変難問であったのが、共同物流センター事業でした。

これは国の制度融資を得る為に、卸組合の土地を担保にし、組合の事業として行なったのですが、ウエダを含む5社が実際、資金も出し、事業運営を行なっており、その他の数十社はユーザーとして物流会社を利用しているだけの構図でした。

その5社の中でも、規模で負担金などの比率を決めており、ウエダともう一社で半分以上の負担をしており、約1億近い運営費を年間払う事になっていました。
しかも怖ろしいのは、その物流会社が赤字になれば、その損失をこの5社が、その比率に基づき追加負担をしなくてはならない構図で、ユーザーとして利用しているだけの会社は、他が安ければそこに代えれば良いだけですが、この5社は、自社に損失が返ってくるだけなので、この物流事業からは抜けられない蟻地獄の様相でした。

時代はバブルが弾け、バブル絶頂期に作成した甘い事業計画での物量など見込めず、逆にドンドン減っていく状況で、当初据え置きでスタートしていた融資の返済もスタートしていく時期でした。

問題があまりにも複雑である事、私が全く知らない業界の組合の事であり、色々な関係性が私では分からない事、他にたくさんの難題に取り組まなくてはならない事などから、この物流事業からの脱退交渉だけは兄の方で行ってもらう様にしていました。
しかし、しがらみもあり、かなりの腕力の要る交渉でしたので、全く進んでいませんでした。

私の進めるいくつもの難題の一つは、当然の事ながら、真っ赤な赤字会社を黒字化する事であり、しかも前回までに書いていた様に、この頃の貸し渋り、貸しはがしの状況下では、一刻も早く達成しなくては間違いなく倒産に追い込まれるという状況でした。
それを考えると、結局は私がこの問題も解決しないと、他の解決に繋がらず、この交渉も私が行う事にしました。

初めて、5社の社長との交渉に出ました。
それまでに兄を通じて、ウエダは撤退させて欲しいと言っていましたから、皆私の意向は分かっています。
又、撤退の決断を出しているのは、社長の兄ではなく私である事も、皆分かっていますので、ここでも私は悪役でした。

しかもこの場合は、他の4社からすると、一番メインのウエダが撤退するとなると、余計に苦しくなるのは明白である事、又この事業は、ウエダの社長であった私の父が組合の理事長時代に、決めた事業でもあるので、ウエダが脱退など許せる筈のない話であり、初めから予想通り、”ウエダが脱退するなど何事だ”、”今抜けられると完全に立ち行かなくなる”、”止める為には、融資返済など多額の現金を用意せねばならず、そんな事ができるわけがない”など一斉に言われました。

私は一通り話を聞いた後、”確かに厳しいかもしれないが、この状況を考えると今日が一番損失が少ない、それは各社とも状況は同じ筈だ”と訴えました。

2008年2月20日水曜日

旧暦びより

和美作美ブログにもありましたが、19日は雨水という二十四節気の一つの日です。
立春の次の節気で草木の芽が出始める頃だそうです。

と珍しく、もっともらしい話をしておりますが、実はKBSさんが出されている
”旧暦びより”という本を頂いたので、知ったかぶりをさせて頂きました。

この本、らくたび文庫を出されている桜風舎さんが編集されており、見やすい
本になってますので、私の様な者でも見易いですし、残念ながら京都の事に関心を示さないうちの子供も見ていました。

なかなかlaviemarieさんの様にはいきません。。。
やはりそれは親の問題ですね。(笑)

2008年2月18日月曜日

門川新市長と京都流

皆様、ご声援有難うございました。

基本的には政治を云々するサイトではない京都流ではありますが、まず、京都流はジュニア京都検定の理念を応援するサイトでもあり、それを作って来られたのが門川前教育長である事、我々は色々な問題意識から京都流を展開する様になったのですが、その主旨に門川さんは、バッチリ当てはまる方である事、又、それもポーズや、口だけの人ではなく、実際に自分で動かれて、皆を引っ張って来られた方である事などから、今回は、門川さんを推薦するという立場を取らせて頂きました。

私自身も、選挙で個人的に協力したという事は初めてでしたが、それは門川さんのやって来られた事や、お考えを知っているだけに、こんな人が落ちたら、京都にとっては大変な損失だという一念からでした。

しかし、問題だと思うのは、新人候補4人の選挙だというのに、投票率37%というこの京都市民の白けぶりです。
そういう様にしか仕向けられなかった、候補者達に魅力がなかったと書いている記事も見ましたが、私はそんな問題ではないと思います。

自国の事、自分の住んでいる地域の事ですから、誰が出ようと、立候補者の問題ではなく、まず関心を持つのが人間としては当たり前の事だと思います。
自分の事に関心がないというのと同じ事だからです。

京都ほどの都市で(東京でも大阪でもあまり変わりませんが)、37%しか投票に行かないなんて、外国からすると、まず、”品格”どころか、軽蔑される話です。
そういう風潮が、確かに政治は悪いと思いますが、国民自体が大いに問題で、こういう白けた、自分の事にも興味を持たない国民にして来たのは、教育にも大きな問題があると思います。

その問題に対しても、まともに取り組んでこられたのが門川さんだと思いますが、そういう本当の所が伝わらず、単に、庁内候補だから改革ができないとか、政党相乗り
だから駄目だとか、そんな話で予想以上の大苦戦でした。

この2,3日何度か門川さんと電話のやり取りをさせて頂きました。
いくらお疲れでも大変なハードスケジュールの中でも必ず、かなり酷使されたのが分かるお声で、お電話を頂きました。
そんな事一つとっても、信用のおける方だと思います。

と、同時に京都流の皆さんにとっても、より、親近感のある市長の誕生です。
何せ、京都流の存在を知っておられるどころか、気にして頂いているのですから。
以前にも言いましたが、これからは皆さんの京都への思いが、今までは思いだけで終っていたのが、市長にだって届くという事になるのです。
そういう意味では、京都流も、京都流の方々も、心を引き締めて、京都に対して、より建設的に考えていかなくてはならないと思います。

最近、皆様のお陰で、小さいながら、ある種の存在感を持って来ている様に感じますが、これから門川新市長の下、より一層盛り上がっていきたいと思いますので、
よろしくお願い致します。

2008年2月17日日曜日

ウエダ再興記(25)~ どんでん返しのメインバンク

取引変更の交渉も、永年お世話になった所に対して、いきなり明日から変更しますというわけにもいきませんから、実際は、同じ様にリストラ計画を説明する事から始めました。

しかし予想した通り、都銀の態度は目に見えて、変わりました。
当座貸越という契約で、殆ど実際は利子だけ払っていて、元金は張り付いたままで返済していないという状態で来ていたものを、1年の証書貸付に変更してくれと言ってきました。
1年の証書貸付という事はその間に元金も返済し、1年後には完済しなくてはならないわけですから、実際できるわけのない話です。

この都銀ともこの後何度も怒鳴りつける様な交渉をしながら、その間に地方銀行にメインになってもらう交渉を進めました。
怒鳴りつける交渉をしてはいましたが、腹の中ではこうなる事は予想していました。

ところが、計算違いであったのが、都銀を切りにかかり、険悪なムードになった所で、リストラ計画大いに賛成と言って、メインになってくれる筈であった地銀の態度が変わった事です。
今までずっと、都銀のサブで居た為、その地銀からすると大変不利な条件であったのを、ここぞとばかりに条件変更を言って来たのです。

この地銀に対しては、リストラの事業計画も提出し、年間2500万円しか返済原資がない形で、それに基づいて計画を立てていましたが、そんな事はお構いなしで年間5000万円返済、しかも同じく当座貸越から証書貸付に変更して、利率も1%近く上る話でした。
”あなた方、地銀が都銀と同じ様なスタンスで、事務的に、役所的に、そんな対応をしていて良いのか?”交渉役の部長に、又腸が煮えくり返る思いで怒鳴っていました。

と同時に、この交渉も大変シビアなものでした。
メインであった都銀とは既に決裂していて、カバーをしてくれる筈の地銀とも揉めるわけですから、間合いを少し間違うとやはり倒産という可能性もある局面でした。

この時、救ってくれたのが、新規でサブに入ってもらった京都信用金庫です。
当時の本店長に流れを話すると、一度うちで肩代わりする提案をしましょうか?との事でした。
しかも数日後、京信から出て来た提案というのは、この頃の状況を考えると尋常ではない破格の条件でした。
私が驚いて本店長に、どうしてここまでやってくれたのですか?と聞いたところ、
本店長は、予想される御社の返済原資から考えると、これくらいの条件にしないと無理でしょう?と言ってくれました。

地銀には、事業計画、返済計画もしっかり出していたにも関わらず、こちらの事など一切考えない案であったのに、京信の方は、事業計画も出していないのに、状況を類推して、うちを生かす為に、こちらの返済余力から逆算しての、条件を出してくれたのでした。

意気に感じた私はその場で、ずっと話して来た地銀に代えて、京信をメインに据える約束をしました。
メインになってもらうべく話して来た地銀には、今度は新規で入って来た信金のサブにつく事を、納得してもらう交渉をしなければなりませんでしたが、そんな交渉くらいはやらないと申し訳ないと思いました。

納得の行かない事は相手が誰であれ、主張して行きますが、相手が腹をくくって考えてくれた事に対しては、こちらもそれに応えなくてはいけない、それが私の全てに共通する基本的なスタンスです。

2008年2月13日水曜日

月桂冠370年

今日、経済同友会の会合で知ったのですが、月桂冠さんの創業は1637年で昨年でなんと創業370年だそうです。

ウエダ本社は今年70周年とか言ってますが、こういう話を聞くと京都ではまだまだ、ひよっこですね。。

1637年に伏見で創業されたのですが、1635年には参勤交代が制定されたとの事で、その事により、伏見が宿場町として繁栄したそうで、江戸時代の初めには一説によると人口1000万人、明治の初めには3000万人との事ですが、この参勤交代を行う事によって、当時東海道の通行は何と、片道年間200万人であったそうです。

又、1902年には既にハワイにお酒を輸出されていたそうで、海外展開(進出)も100年以上前に行なわれていたわけで、京都企業、京都の奥深さを感じた日でした。

今日は、日記風にあっさりと終わります。

2008年2月10日日曜日

ウエダ再興記(24)~ もう一つの倒産との分岐点

業績が悪い事と倒産する事は100%一致しません。

業績が悪くても銀行が援助し続ければ倒産はしませんし、逆に世の中には黒字倒産ということは頻繁にあります。
それだけに銀行取引は神経を使うことでしょうし、多くの場合、銀行には皆かなり気を使っている感じがします。

私は、ウエダに来て再建に関わる全ての事に対してそうでしたし、それ以降も何かを行う際には、通常の商売ではどうか?をシンプルに考える様にしています。
京セラの稲盛氏の表現で言えば、”何事も原理原則に従って考える”という事です。

ウエダに入るまで、銀行との本格的な取引というのは全く経験をしたことがありませんでしたが、銀行だから特別という考えを持たず、通常の取引先として考えました。

私が入って来るまで(この頃は都市銀行9行の時代でした)ウエダの銀行取引は、大手都市銀行のD銀行がメイン、地銀がサブの二行取引でした。

私は当初から、ウエダの規模で何を偉そうに都市銀行メインでやっているのだという事と、同時に、これから大改革を行うのに、2年毎に支店長が変わっていく様な都市銀行が、長い目で見た再建を理解してくれるわけがないとも思いましたので、先方から言われていない時期に、こちらからこの都市銀行を外そうと考えました。

実はこの点も、倒産を防いだ大きなポイントだと思います。
というのも、この都銀は、後に他の都銀との合併をする事になるのですが、その過程では相当ひどい切捨てもあった様ですので、もし、この合併の動きがあってから、うちがリストラを行なう様になっていれば、まず、メインからの支援を得られず、倒産に追い込まれていたのではないかと思います。

又、このメインの都銀がリストラ計画を理解してくれないからと、リストラを行なう手が遅くなれば、その分確実に倒産に向かうわけですから、この銀行取引の変更は、後から考えると、本当に良いタイミングであったと思います。

私は、サブであった地銀の営業本部長の所に行き、大リストラ(再構築)を行う事、
その為には、都銀では親身になってくれないであろうから、今までサブであったその地銀にメインになって欲しい旨を説明し、本部長からは、大いに賛成で、援助しますとの心強い言葉を得ました。

しかしそれだけでは、一行取引になり危険である為、新たに信金をサブに入れる事にし、地銀メイン、信金サブの体制を取り、安心して、大手都銀との取引を止める方向で話を進めていく事になるのでした。

2008年2月7日木曜日

コメント返信に代えて・・あまりにお褒め頂くので・・

laviemarieさんのブログで、身に余るお褒めの言葉を頂いていて、ちょっと印象良すぎ?と思いますのと、同時に大変嬉しいこともあり、こちらで書かせて頂きます。

OK企業につきましては、大変光栄な事ですが、実は、子育てパパに理解があるというよりは、中小企業としての実情から考え出したアイデアが、面白がって頂いたというのが、正直なところです。

国の行なわれる事は往々にして大企業の物差しでしか考えていない事が多いです。
ワークライフバランス、父親の育児支援、そういう事をいくら制度で固めたところで、人手の足らない中小企業は、理想は共鳴できても、現実できない事が多いです。

又、実際の話、たくさんの仕事を掛け持ちせざるを得ない中小企業で、遅くまで働いている人と、育児休暇などを取得するお父さんと、公平に評価できるか?又、周りの忙しい仲間達がその事を本当認めてあげれるか?という問題があります。
そんな所に制度だけ導入しても、実際本当はサボりたいわけではないが、やむを得ず、育児に関わらなくてはいけない人が、休暇を取ったりしても、その人自身が評価をされず、社内では不遇を味わうことになってしまうのが現実だと思います。

しかし、我々の会社でも社員が、生き生きと働けるという会社を目指している以上、
家庭内での困りごとも出来るだけ取り除いてもらい、安心して働けるようにしたい、
それはずっと考えていることです。

私の場合この数年で両親を亡くした為、ある意味その苦労はしていないのですが、
日本の場合、子育てと同じく、親の介護の問題があります。
そんな悩みを抱えていてはそれこそ、仕事どころではないと思います。

今後もずっと続いていくこの問題に何かできないかと考えていて思いついたのが、
有給休暇を1時間単位で取得できる様にしようという事です。
これであれば少し管理が手間なだけで、育児であれ、親を病院に連れていくという事であれ、2時間だけ休みを取って、日中堂々と抜けていけるわけです。
それで家庭内でのやるべき事を済ませてもらって、仕事に集中してもらえば、多分、
数時間のロスなんて、大した事ではない、そういう発想からこの制度にした、という事で、育児参加するパパを応援しよう!というものだけではなかったのが本当のところです。

でも、私はこれで表彰して頂いて、マスコミなどにも取り上げて頂くことにより、
この、1時間で有給が取れるという制度を多くの企業で取り入れて頂ければ、それこそ
仕事は一生懸命やり、家庭の事もしっかり協力できるという社会が実現できると思いますので、表彰して頂いてよかったなと思っていますし、ここでもあえて長くなりましたが、書かせて頂きました。

あと、laviemarieさんのブログで嬉しかったのは、ダンディーと言われた事!ではなく(笑)、京都流の使命と思って展開してきたモデルの様な存在であり、私にはできない実践をされていることです。

京都人でありながら京都の事を知らなかった私が、京都に持った問題意識で、何故、もっとしっかり背景や意味合いなどを知らしめないの?しかもそれをできるだけ早い段階から・・という事を思っているところに、京都市教育委員会がジュニア京都検定を作られ、地元を知る、興味を持つ、その事が子供達に一番大切な教育になるという主旨に賛同して、ジュニア京都検定も応援するという立場をとったわけです。
しかもジュニアの場合は、親子で学ぶということで、希薄になった親子間の関係も見直そうという想いもあったわけです。

しかし、現実はまだまだそこには至ってないのも事実ですし、京都流サイトでも、
京都検定の方では、1級の方も参加してもらっているので、それなりの役割もあるかと思うのですが、ジュニア京都検定に対しては、うまく機能できていないという想いを
持っていました。

それがlaviemarieさんのブログはいつも、親子間で学ばれておられる姿、しかもそれをお子様も楽しまれている御姿が感じられ、愛情一杯育まれておられるという事が
読み取られ、多分、前門川教育長はじめ、教育委員会のジュニア検定に関わってこられた方々は、大変喜ばれているモデルだと思います。

是非、今後も京都流のジュニア京都検定大使の様な存在で、お子様とも楽しんで京都を発信して頂ければと思います。

長くなりましたが、そんな言いたい事だらけでしたので、返信に代えてとさせて頂きました。

2008年2月5日火曜日

コメント返信に代えて

busstopさん、yoojiさん、コメント頂いており有難うございました。

返信が遅れておりましたのは、又!と言われるかもしれませんが、土曜日から香港、マカオに行っておリました関係で、先程戻ったところです。

そんな事情で返信が遅くなり申し訳ございません。

まだ、前回のサイゴン日記も書けていないのに、次の国に行っていましたが、今やラスベガスを抜いたと言われるマカオの事も少しは触れないと駄目だと思います。

ラスベガスを抜いたという事が行ってみると納得できます。
全3000室スイートという巨大ホテルも建設中で、どこのホテルもドデカイ、カジノを
持っていますが、その客の95%が中国人で、又使う額が半端ではないという光景を見てしまうと、日本が確実に埋没していってるのがよくわかります。

だからこそ、日本人は”京都”を考えないと駄目なのだと思います。
又、いずれそんな話も書かせて頂きたいと思います。

それと、busstopsさんが指摘して頂いた通り、今年の5月1日がウエダ本社の70周年です。
近々これは詳しくご説明させて頂きますが、京都流のイベントとしても2日、3日と大々的に行います。

周年事業と併せて、ハイアットリージェンシー京都で3日間行うというものですので、
是非京都流の皆様も、ご予定を頂ければと思います。
取り急ぎ、返信に代えて。

2008年2月3日日曜日

ウエダ再興記(23) ~会社を買いませんか?

私は元来、相手が誰であれ、自分が正しいと思えば言っていくタイプです。
しかもこの時は、瀧定で梯子を外された時や、父親から梯子を外された時以上の悔しい思いでしたので、とても黙っているわけにはいきませんでした。

しかし、この頃は、子会社代表と、U社が歩調を合わせていたのに加えて、ウエダ本社で、数字面、資金面を一手で取り仕切っていた常務も、子会社の代表の言いなりという状態でした。
親会社の常務が子会社代表の言いなりで、しかも親会社にとっては役員でもない子会社代表に指示されて、親会社の支払いを行なったりするという非常識な状況で、そういう事を指摘しても、ただ反発して、”皆を引き連れて出て行く”などと言う様に、ルールも何も無い状態でした。

これだけの四面楚歌の状態で、私がいくら正しく、腹が立っても、それを主張したところでその状況が変わるわけもなく、そんな事で時間を費やせば間違いなく倒産に追い込まれる、そう考えた私は、悔しい気持ちを押し殺して、何故U社がそんな行動を取るのかを考えてみました。

U社からすると、コンピューターの子会社は、利益も出ているし、決して切り離せない重要パートナーですが、親会社のウエダ本社は赤字であり(これらの数字の情報もU社には漏れていたのですが)、文具卸という先行きも厳しい業種で魅力もなく、子会社代表が言う様に、このままウエダ本社が潰れると、大事なコンピュータ子会社も共倒れするのが、最も困る事だったのだと思います。

それなら・・私は考えました。

法律的には、これだけの問題があるわけですから、子会社代表を解任する事は問題ありませんでしたが、基幹系システムという難しい領域で、100人近い規模の会社をウエダ本社の子会社として、法律面だけで押さえて、置いておいても先行き生きていけるのか?又、そういう事に疎い私が、傘下に収めていても100人程のメンバーを生かすことができるのか?
そう考えると、どこか大手と関係を深めないと駄目だと思いました。

又、周囲の人からは、羨ましく思われているウエダグループが、連携どころか、内情はそんな情けない状況であり、それなら、支配権を無くしても、U社の様な会社に入ってもらった方が、ルールは通じるので、却って子会社とも連携が取れるのではないか?そう思いました。
そして何より、この流れを止めて、倒産の危機をしのぐのは、U社の側に回るしかない、そう考えました。

私はU社の会長に会いに東京へ行き、こう切り出しました。
”コンピューターの子会社を買いませんか?”
予測した通り、U社はその話には興味を持ち、出荷停止の措置や、決済の交渉もお互い誠意を持ってこれから交渉するという事になり、U社のプレッシャーをひとまず止める事ができたのでした。

2008年1月31日木曜日

京都市長選

昨日、京都の経済界による、かどかわ大作氏を激励する総決起大会がありました。

山田知事、桝本市長、立石商工会議所会頭、渡部経済同友会代表幹事、他、経済各団体のTOP8人の激励がありました。

昨日参加されていたある方が、そのTOPの方々が殆ど、自分の言葉でスピーチされていたと仰っていました。

私は、それは、そのTOPの方々が、単に団体のTOPで立場上、役割で来られたのではなく、門川さんの人柄、実績、を知っておられて、本音で語られていた証拠だと思います。

何度も申しますが、京都流は政治を論じるサイトではありませんが、こと京都の首長に関しては、大きく関係するので、やはり京都流の理念に基づいて考えていかなくてはならないと思っています。

その意味で、最近気になるのは、役所の改革は、中に居た人ではできない、とか、相乗り候補の擁立は開かれた決定ではない、などという意見が聞かれる事です。

私は基本的に、自分の知らない事を偉そうには言いませんが、これら二点については、一般よりはかなり詳しく知っていると思います。

改革についていうと、門川さんは京都の公教育という大変難しいところで、堀川の奇跡を始め、日本中が注目する改革を次々に行い、いくつもの素晴らしい成果を上げられています。
それを知っていれば、あの成果を上げられるリーダーなんて滅多に居ないことなどは明白です。
又、相乗りについても、利権を守りたいからなどから行う、国民、市民不在の相乗りではなく、門川さんの実績から、これ以上の人は居ないという事で、結果、自民党も乗っかったというのが事実です。

京都を愛する、京都流に集っていく皆さんには、是非、こういう事実を知って
頂き、上辺ではなく、深いところを考え、深いところを知り、そして変えていける人、京都の価値を高めていける人、そういう人を選んで頂きたいと思います。

2008年1月29日火曜日

ウエダ本社で又ドラマ撮影!

今日、またまたウエダ本社でドラマの撮影がありました。

テレビ朝日系列で木曜20時~の”新・京都迷宮案内”というドラマで橋爪功さんが主演のものです。

まあ前回の浅野ゆう子さんのドラマでも、実際オンエアされたのは一瞬でしたので、
今回も期待はできませんが、女子社員も又映っているようです。

私は、このドラマを見た事がないのと、今日も出かけていましたので、先程、番組のホームページを見て、又奇遇だなと思いました。
ドラマには市田ひろみさんも出られている様なのですが、今日私は丁度、近くに寄ったので、ホントに数ヶ月ぶりに市田さんの所にふらっと寄ったのでした。

出張されていておられませんでしたが、全然知らずに、数ヶ月ぶりに寄った日に、市田さんも出演されているドラマを、うちの会社で撮影してるなんて、何か変な縁ですね。

放映は2月28日という事ですので、又是非ご覧下さい。

快適なオフィス環境を提供するウエダ本社としては、今後京都で撮影されるドラマでオフィスを映す際は、いつでもウエダ本社が使われるという存在になりたいもんです。

2008年1月27日日曜日

ウエダ再興記(22)~ 最大の危機

色々な問題で四面楚歌、八方塞がりという状況下、最大の危機が訪れました。

一番の仕入先であるU社がいきなり、支払日当日に来て、今まで手形で払っていたものを現金で払って下さい。と言ってきたのでした。
支払日当日に忘れもしませんが、その日の支払い8000万円を現金で支払ってくれ、それができないと出荷停止にすると言ってきたのです。

U社とは永年メインで取引して来た、切っても切れない仕入れ先で、オフィス部門がウエダ本社とコンピュータの子会社は情報システム部門と取引していたのですが、この時は子会社分の支払い日でした。

この頃は、貸し渋り、貸し剥がし真っ只中の時期であり、一部にウエダの不安説もある中、メインであるU社に現金でないと取引しないなどと言われた事が伝わると、一気に倒産に追い込まれるかもしれないという事を想像するのは、たやすい状況でした。

私はこの動きは、子会社代表などと連動したものである事は分かっていました。

勿論、こんな無謀な話を呑めるわけもなく、この日は交渉に来た、U社の部長を怒鳴りつけて追い返した後、外出する用事があったので、経理の担当者に、絶対子会社代表が文句を言ってくるから、その場合は連絡してくれと言って出かけました。

案の定、子会社代表者は、こともあろうに親会社の経理に対して、何てことをしてくれるのだ、直ぐ払ってくれ、と怒鳴りつけてきたそうです。

永年メインで取引して来た会社が、いきなり支払日に来て、8000万もの額を現金で支払ってくれ、という理不尽な話であるにもかかわらず、身内である筈の子会社代表が、親会社の経理部長に向けて払ってやれと怒鳴りつけてくるのですから、ホントにあなたはどこの社員?という情けない話でしたが、これが当時の、ウエダグループの実体でした。

私はこの時までにも、悔しい思いを何度もしていましたが、この時の悔しさに勝るものはありません。
U社に対して、腹が立って、腹が立ってどうしようもない気持ちでしたが、同時に
”このままでは潰されてしまう”そう強く感じました。

2008年1月26日土曜日

サイゴン日記②

今回のベトナムでは工場視察が多いので、あまりここで上げる事が少ないのですが、
同行して頂いた、京都の会社の工場を2社をご紹介します。

まずはワタベウエディングさん



こんな感じで縫製されていて、



これがベトナム製ウエディングドレスです。



とんでもなく広く、立派で綺麗な工場でした。



これはパールトーン加工で御馴染みのパールトーンさんの工場です。



これは着物の縫製風景です。
今では結構、着物もベトナムで縫われているようです。


両社とも流石、京都の優良会社だけあって、従業員の方を大切にされているという事がよくわかりました。
実際、韓国の会社や、現地の会社などより、賃金も高く、食堂なども充実させておられ、同じ京都の会社として、誇らしく思いました。



 丁度帰る頃は、工場の終り時間と重なり、帰宅ラッシュでした。



これは帰宅ラッシュではないのですが、こんな3人乗りもよく見ましたし、4人乗りも
居ました。



これは街角で撮ったスナップです。

今回はサイゴン日記というより、サイゴンの風景ブログですね。。

2008年1月24日木曜日

XEROXで2年連続の全国1位達成!

ホントは色々ブログに書きたい事もあり、書かなくてはいけないサイゴン日記もあるのですが、相変わらず、なかなかブログにゆっくり向かう時間がなく、書けてないのですが、今日は、既存ビジネスで嬉しい事がありました。

富士ゼロックスの代理店の中で、昨年の年間販売数の全国1位が確定したとの知らせが入りました。
一昨年も1位を獲得しており、これで二年連続の全国1位となりました。

最近、既存ビジネスでは、あまり嬉しい事がなかったので、これは久しぶりに嬉しいニュースでした。

京都流には関係ないのですが、少し宣伝させてもらいました。

2008年1月20日日曜日

ウエダ再興記(21) ~何の為、誰の為に経営するのか?

見栄・体裁を重んじていた父親は、私に任せていると分裂、解体が行なわれていき自分に傷がつくことをを嫌ったのだと思います。

元々入るつもりがなかった会社に、子会社代表達から何とか建て直して欲しいとの事で、身内の会社だから少しでも役に立てばという想いで入り、私の役割は悪役になり、シビアな交渉をする事だと思って進めて来た事を、あっさり撤回しているのですから、情けないやら、腹立たしいやらで、”誰のせいでこうなったと思っているのだ、馬鹿らしい、もう辞めよう”そう思いました。
しかし、私が辞めた場合ウエダ本社は、子会社を切り離して廃業するのか、切り離れていった後も父親達がそのままやって倒産していくのかのどちらかしかないのは明白でした。

この時父親は80歳、それまでに二度脳梗塞で倒れた後遺症もあり、まともな判断もできる筈がないながら代表取締役会長という最高決定権者のまま居たのですから、これが最大の問題でした。
私は兄と母に話し、父を外して私が代表権を持つ事、私がやるなら全権を委任してもらわないとできない事、又そうしない限りウエダは存続できない事を認めてもらい、2000年1月代表取締役副社長に就任しました。

社員達はそこまで重く考えていなかったかもしれませんが、ウエダを辞めて自分の会社に戻り、ウエダは消滅して社員達は路頭に迷うという様な、皆を放って自分だけ”逃亡する”という事は、もうこの時点ではできませんでした。

ウエダに残って、再興していく事を決めました。
しかし一方で私が加わる事で、経費も増やす余裕はありません。
まして私が経費カット、リストラを行なっていくのに、自分が良い給料を取れるわけもありません。
代表を外すという事で、父の年収を600万円減らし、その600万円を私の年収としスタートしました。
20代の、瀧定でのサラリーマン時代よりも安い給料で、この時点での借入金8億8千万円を代表として引き継ぐ事を考えると、自分の損得勘定を考えていれば割りの合う仕事ではありませんでした。

私は自分でも創業していましたらから、体で感じている所がありますが、いくら大企業でもサラリーマン社長と創業した社長は全く違うと思います。
オーナー系の社長では、事業が失敗すると、本当に死に追い込まれる事などたくさんありますし、自分で創業した多くの社長は、それ位の覚悟を持って創業しています。
ましてや、倒産一歩手前の会社を引き継ぐわけですから、この代表になった時点で、大げさではなく命賭けで行う腹を決めました。

それと同時に、自分だけが良ければ・・という発想で興した有限会社から、本来は、公の立場もあり、社会貢献なども考える必要のある株式会社という組織を引き継いだこの時に、会社は誰のものか?何の為に会社を営むのか?について発想が変わったと思います。

負け癖がついていて沈滞ムードが蔓延している社員に向けて私は、”ウエダの代表を引き継いだ以上、京都の同族の中小企業として経営するつもりはない、上場も視野にいれた、いつでも上場もできうる会社にしたい”そう宣言したのでした。

2008年1月16日水曜日

日本ドリームプロジェクト

いろは出版、日本ドリームプロジェクト、きむ、これらをご存知ですか?
もしくは一歳から百歳の夢、中学生の夢、高校生の夢、先生の夢、これらを見られた事はありますか?

これも門川前教育長から教えて頂いたのですが、それまで私は知りませんでしたし、見た事もありませんでした。
(ご存知ない方はこちら)

まだ20代のきむという青年が路上で自分の書いた詞で感動、共鳴してくれる人を見て、日本の全ての人に夢を持ってもらおうとするプロジェクトであり、~の夢という本を出版しているのが、きむさんが社長を務めるいろは出版です。


今日、このいろは出版さんにお邪魔し、”きむ”こと木村社長にお目にかかってきました。
一歳から百歳の夢を始め、全く素人である他人の夢を綴った本が売れている事は大きな驚きですが、この”きむ”さんの詞(メッセージ)を書いたあるポストカードはなんと100万枚売れているとの事でした。

京都流でもよく、草の根的に活動していくからこそ、色々な事を動かしていけるのだという事を言っておりますが、このいろは出版さんなどは8年前に設立されて、ホントにキムさんの想いを追及して来た、それもそんな重い話ではなく、目の前の人を皆笑顔にするという事を追及されて来た事が、ビジネスにもなり現在50数名の正社員を抱える立派な会社になっているという、驚きと、感心と、我々もやっている事は間違いではないという想いや、私は、まだできていないことばかりだという反省と悔しさなど、色々な事を感じさせて頂きました。

私も今の日本、これからの日本で心配なのは、多くの人が元気がない事です。
何故そんなに元気がないの?覇気がないの?という問題について、私も単に夢がないからだと思います。

丁度今朝の朝礼でも話していたところだったのですが、昨年行ったベトナムやその前に行ったインド、中国などは国や多くの人が豊かになっていくことが分かっているので、多くの人が夢を持っています。
日本では、机上論で考えると暗いことばかりで特に若い人が夢が持てないのだと思います。

ところが、私は夢というのは、どういう人生を歩みたいか?、どう生きたいか?という事だと思いますので、豊かになるかどうかという事とは別の話だと思います。

”きむ”さんの夢が実現し、今の子供達が全て夢を持つ事になれば、本当の意味で世直しになるし、私も今後ドリームプロジェクトについては応援していきたいと思います。

でもまず足元を見て、自社の社員に夢を持ってもらわないと始まりませんね。

2008年1月13日日曜日

ウエダ再興記⑳~ ウエダ取締役としての仕事

ウエダの中でも揉め事ばかりでした。

今までの経営陣が悪いので、こうなったわけですから、心情的には本社を廃業させて自分達は切り離して欲しいという子会社代表達の気持ちも分からなくもなかったですし、部外者であった私は彼らがやってくれるならそれでも良かったのです。

しかし、私は常に仕事というものに対して、お金を貰う以上はプロであり、プロであれば与えられた役割以上の結果を残さないといけないと思っています。
いきさつはどうであれウエダの取締役になってからは、ウエダの為になる事に全力を尽くさなければなりません。
それがウエダの取締役としての仕事です。

又、私は口だけで何もやらない人というのを信用しません。
世の中にはこの手の人は多いですが、言うのは簡単、批判するのは簡単なのですが、それをどうするか?、実際やる事が難しいのです。
これらの感覚からすると、廃業させて欲しいと言っていた代表者達は、口では色々言うのですが、ウエダの為に自分達が何とかしようとする姿勢はなく、ルール上はおかしな事だらけでした。

一事業30年と言われる様に同じ事業は30年が限界というくらい、同じビジネスで未来永劫繁栄するという事は難しいと思います。
それ故、新たなビジネスを生み出し、有望なものは子会社として展開し、次々とスクラップ&ビルトを行なっていくわけですが、それをグループ内で、黒字になってから独立させた子会社が、自分の所は儲かったから、斜陽の元々の親会社から切り離して欲しいなんていう事は、親会社側の取締役として認められる話ではありませんでした。

上げればきりが無い程、食い違いがあり毎日揉めている状態で、その内には、コンピュータ部門の子会社では皆を引き連れて出て行くという話まで持ち上がり、又その間に実際、子会社が親会社の役員が誰も知らない間に自分達の子会社を作っているという始末でした。

勿論、法律的には、その代表者達を辞めさす事はできましたし、何も問題はないのですが、不毛な分裂をしても意味がないので、逆にその代表者を本社の副会長に据えて、全て共同運営する事まで提案し、進めようとしていました。
勿論、この間の揉めている話、その対策は全て、会長である父、社長である兄には相談しながら、実行は私が行っていました。

ところがある日、会社に言ってみると、私の居ない間に、父である本社会長が、私以外の関係者を集め、その話を撤回していました。
何のつもりなのか訳が分かりませんでしたし、父親にも激怒しました。

思えばこの時が人生で大きく梯子を外された二度目の経験だったと思います。
ただしかしこの時は、父親から梯子を外されたわけで、この時程人間不信になる思いをしたことがありませんでした。

2008年1月8日火曜日

今更ですが・・サイゴン日記①

昨年11月ベトナム視察に行っておりました。

今回は工場視察が殆どで、散策的な時間も殆どなかったので、
以前の様に視察日記を入れられないまま年を越しましたが、
折角ですので何回かに分けてサイゴン(ホーチミン)日記として入れさせて頂きます。

まず行くまでに持っていた印象ではフランスの影響を受けているので、町並みは
もっと綺麗かと思っていたのですが、実際は他のアジアの都市と同じ風景で、
排気ガス(バイク)だらけでした。



ガイドの話によると、彼らは何か目的があるわけではなく、
単に毎朝起きて、とりあえずバイクに乗って出掛けるという話でした。
行く先もなくただ一日中バイクに乗って走り、食事は全て外で食べ、
夜に寝る為だけに帰ってくるという生活だという事です。
ホーチミンは南部という事で住民の気質も明日は明日の風が吹く的な考えらしいのですが、
背景的には稲作も普通にしていても年三回できるという食料には困らないという事もあるようです。

着いた翌日には、新しくできた証券取引所とホーチミン一のエリート校ルホンホン高校に行きました。
証券取引所は日本の一企業のコールセンターよりも小規模であり、まだ、自国内での取引が活発に行なわれているとは言えない状況でした。



ルホンホン高校では、そのレベルの高さもさることながら、そのイメージに対して
生徒達の無邪気な感じが非常に印象的でした。
日本だと、高校生でしかもエリート校の生徒が、授業を覗きに来た外国人に向けて
人懐っこい笑顔を振りまくなど考えられないことで、教育において、日本が今後
考えていかない問題がそこにある様に感じました。



私では分かりませんでしたが同行していた、あるメーカーの社長さん曰く、行なわれていた物理の授業も相当レベルの高いものだという事でした。

2008年1月6日日曜日

ウエダ再興記⑲~ 文具業界の常識とウエダの意識

どの問題も絡みあっているので実際は同時に進めていったのですが、ここではできるだけ一つ一つ書いていきます。

創業の文具卸はその事業自体ではこの時点でも7年程赤字であり、この時期にはロイヤリティー収入のある本社に入ってからも二年程赤字という状態でした。

他業界から入った私からすると文具業界というのは、不思議な事だらけでした。
まず、ウエダは卸で、文具屋さんは小売というのですが、小売と言っても実際の売上を上げているのは納品というスタイルで、企業などに毎日出入りして注文を聞き、それを届けるというものであり、私からするとこのスタイルも卸じゃないの?と思いました。

そうであるにも関わらずメーカー、卸、小売という区分けが強く存在し、卸であるウエダは企業に直接出入りするだけでも小売である文具屋さんからバッシングを受け、取引停止など突き上げを受けるという事がまかり通っていました。

文具屋さんの間でも縄張りがしっかり存在していて、”あそこはうちの客だ”という意識があり、どこの企業というだけで出入りしている文具屋さんも、競争がなく決まっている状態でした。
しかし、”あそこはうちの客”と売り手側で勝手に言っているだけで、買い手側は全くそんな意識を持っていないケースがほとんどでした。
そんな中アスクルというものが登場したのですから、”何という事をするんだ”と文具屋さんの間では大騒ぎになっていたのです。

私は育ったのが、全くの自由競争である繊維業界であり、しかも再興記でも書いた瀧定という、大変厳しい会社でしたので、アスクルの展開など至極当たり前で、何故皆が文句を言っているのかが分からなく、むしろ滑稽にさえ感じました。
アスクルというのは、今まで文具屋さんが毎日出入りしていた先に、カタログを届け、運送で商品が届くというスタイルで、一応文具屋さんはアスクルに登録すると、飛ばされる事はないのですが、納品というスタイルがなくなり、顧客との接点がなくなるので正に危機、そんな仕組みを作ったプラスというメーカーは、とんでもない悪者だという事でした。

私も社内や業界内で、”文具業界の常識は一切知りません、あくまで一般ビジネスの常識で展開していきます”と言い続けていましたので、文具屋さんの中でも、完全に”悪者”でした。

社内では時代遅れのオフコンが使われており、単価が何十円の物が多い文具という商品で、2億円もの在庫があるわけですから合う筈もなく、数十万円位の在庫が合わないのは、誤差の範囲内という部長の説明でした。
又オフコンで管理している在庫は合っていない事が多いので、10個を切ると結局電話を受けた女子社員は、倉庫に在庫を確認しに行ってから、お客さんに返事をするという、何の為のソフトであり、コンピューター?という笑えない話であり、経理でも現金出納ですら合っていないという、皆が全く何の意識も持っていない末期的状況でした。

この状況から脱却していく為には、ウエダの強みを作っていく事、1円でも合わない事は駄目、挨拶など基本的な事を何でもきっちり行うという意識を植えつける事から始めていかなくてはなりませんでした。

しかし、業界自体は衰退に向かっており、そこに向けてオフコンからパソコンの仕組みに入れ替えるなど多大な投資をしていくのは無駄に終るので、これらと並行して卸部門の合併を模索していく事を決意しました。

2008年1月1日火曜日

2008年 年頭所感

明けましておめでとうございます。

京都流で年頭所感を書かせてもらうのも二回目を迎えました。
まずもって、その事自体が大変嬉しい事だと思います。
これは色々な方々の力がないとできない事だと思います。

今年ウエダ本社は70周年を迎えます。
再興記を綴っておりますが、母体のウエダ本社に余裕がなければ、いくら想いがあっても京都流の運営などは出来ません。
そういう意味では社員を含め、ウエダ本社に関わってもらっている人々のお陰がまずあります。

今まで古都技やおやかまっさんなどの企画にご協力頂いた皆さんにも助けて頂きました。
特に古都技にご登場頂いた各界の重鎮の方々には、厚かましくも京都流の主旨をご理解頂き、無報酬でご協力頂きました。
とんでもない事だと思います。
本当に有難うございました。

そして、何よりも京都流に参加して頂いている方々、参加はしてもらってないけれど、密かにずっと見続けて頂いている方々(この方が意外に多いんですが)、色々京都の関連サイト、ブログもある中で、お金ない、企画ない、
人手ないという京都流をよりによって好んで頂き(笑)、本当に有難うございます。
皆さんがおられなければ、とっくの前にこのサイトは消滅していたでしょう。

殆ど想いだけで運営しているこのサイトが皆さんのお陰で、二年近く経った
今でも、”京都検定”で検索しても、グーグルでは5位、ヤフーでは2位で表示される
(07年12月現在)様な、密かに注目され続けるサイトでいれています。

私はこの事が、今の時代を表しているというか、今の時代で何かが変わる、何かを動かすのはこういう方式ではないかと思います。
決して、上から作ったものでない、格式や形に拘ったものではない、しかし想いがあり、その想いに色々な立場の人が集まり、草の根的に活動していく、その形が本物の動きではないか、特に京都を動かすのは、そういう事でしか無理なのではないかと思います。

今年、5月1日京都流は二周年を迎えます。
と同時にウエダ本社は70周年を迎えます。
京都流で行ってきた同じ主旨、同じ想い、草の根的な集まりで、周年イベントも交え3日間、ハイアットリージェンシー京都で ”Do you Kyoto?
Do you Kyotostyle? " イベント開催します。

詳しくは順次お知らせして参りますので、是非京都流の皆さんも、その際にはご参加下さい!

2007年12月30日日曜日

ウエダ再興記⑱~ 共同物流センター

管理業務や商標料で潤っている本社に文具卸を入れ、暫くは会社として赤字が隠れた状態であったのが、それからも業績は悪化し、ウエダ本社としても赤字に転じる様になりました。
そんな状況であるのも関わらず、ここで大失政が発覚したのです。

それはこの頃、同業者で物流を協業化していこうとする流れがあり、国も物流倉庫を作る費用などを融資し支援していたのでした。
この時の京都の組合の理事長は私の父親で、同業者の物流を共同で行う会社を、組合の下に作っていくことになったのです。
しかし、この制度融資は取得した土地でないと受けられず、バブル絶頂期であったこの時期、土地を買う事ができず、計画は一旦頓挫しました。
ところが、二、三年後、定期借地の土地でも認められるようになり、ここが一番問題なのですが、この頃になるとバブルも弾け、物流自体も減っていたにも関わらず、事業計画はそのまま見直さず、進んだのです。
この時、父親は理事長を交代していましたが、ウエダの社長になっていた兄としては、父が理事長時代に決めた計画であったので、
途中で見直すという選択肢は持たず、粛々と進めていったようです。

しかし、この計画は元々、ウエダ本社という会社とすれば全く何もメリットのない話でした。
自社ビル内に倉庫も持ち、自社で運転手も抱え物流も行っていましたので、それをわざわざ移すとなると、自社ビルで倉庫も持っているのに、そこを空けて、運転手の人には辞めてもらって、物流会社のトラックを使うという馬鹿げた話でした。
ましてこの計画自体、シビアに数字面を見て作られたわけではなく、どんぶり勘定で設立する事優先で、設立資金が持ち出されていたのでした。

又、設立資金以外にも、毎年運営で一億円近い経費が出て行く上、その物流会社が赤字を出した分も、ウエダを中心として補填していかなくてはいけないという、底なしの様相でした。

この問題が発覚した事により、子会社代表が私をウエダに誘ってきたのですが、こんな経営を自分の身内が行っていましたので、切り離して欲しいという事自体は、その立場になると、当然の心情でもあると思いますし、一番悪いのはそんな大失政をしていた経営者(私の身内)であると思います。

これが一番大変な問題ではありましたが、永年のいきさつ、組合や同業者との関係など色々な問題が絡み合っているので、途中から入った私では理解に時間がかかる事や、ウエダ本社内では他にも多くの深刻な問題を抱えていましたので、他の問題は全て自分がやるから、兄には物流問題だけに専念し、ここから脱退する交渉だけをやってもらうよう頼みました。

私が同時に取り掛からないといけなかった問題は、物流問題を除いても大赤字の本業の建て直しと、単独では卸をやっていけない事から同業者との合併の模索、意味をなしていないグループの再構築と、それら思い切ったリストラを断行するに当たり、理解してもらえる銀行への切り替えと関係構築など、大雑把に言えばこんなところでした。

どの問題も一つだけに専念しても、大変時間の掛かる難問でしたが、何のノウハウも持っていない私がそれらを一気に行なっていかなくてはならなかったのです。

来年からは、それらの問題について長くなるのですが、一つの記録として書いていきたいと思います。
京都流には直接関係ないですが、ウエダの社員や関係者、経営を勉強しておられる方には、実録として役に立つ事もあると思いますので、辛抱強く読んでみて下さい。

来年につづく。

2007年12月29日土曜日

ウエダ本社も営業終了しました。

本日ウエダ本社も今年の営業終了しました。

特にこの1ヶ月強ほどはホントに忙しく、ずっとON状態で走っていた感じです。

この間、ワークライフバランスの関係から、父親が育児に参加する事に理解のある企業(OK企業)という事で、京都市の600数十社の中から5社が表彰され、ウエダ本社がその内の1社に選ばれるという、思わぬ出来事もありました。

これは弊社がオリジナルで考えて導入した、有給休暇を1時間単位で取得できるという制度が大変面白いという評価を受けたためです。


先日、のぶのブログにありました、小学校でのゴーヤの料理の様子は、京都市教育委員会で行なわれているゴーヤでの壁面緑化と、CO2削減などそれを行う意味や、植物(ゴーヤ)の育て方としてのコンテンツとして作成したものに、折角だから、調理して食べるところまで入れようとの事で、教育委員会さんや梅小路小学校さん、それに
ゴーヤの種から育てるところの映像を撮ってもらい、又この12月に調理するに当たり、沖縄からゴーヤを取り寄せて頂いた、京都青果合同さんなどの多大な協力により、環境問題から、植物の育て方、食育までを網羅した、意義のあるコンテンツを
作っている様子です。

こんな事も色々やりながら、夜は夜で日曜日以外では、殆ど毎晩予定があるという状態でしたので、最後までバタバタのハードな日々でした。
年末気分はまだ全くなく、プライベートの年賀状も明日からですが、休みの間は少しゆっくりしようと思います。

ブログだけは同じペースでは書きますが・・・

とりあえず、今日は仕事納めという事で・・・皆さん一年間お疲れ様でした!

2007年12月23日日曜日

ウエダ再興記⑰~ グループ経営とウエダ本社

非常勤で少しでも役に立てばという気持ちで入ったのですが、計算や話が違う事ばかりでした。

まず、私が入ってからすぐ、この人が居れば助かるとあてにしていた経営工学の博士である中国人が、実は辞めたいと言って来ました。
中国に居る一人娘さんが又優秀で、ピアノで引っ張りが来て、アメリカかカナダの大学に国の特待生で行く事になり、娘さんについて行きたいとの事でした。
そんな事を止めるわけにも行かず、いきなりブレーンを無くしたというか、大変な状況の中、一人残された感じでした。

何とか立て直して欲しいと言っていた人たちは、私が入ってからは一刻も早く血を止めないと総倒れになるので、本社を”名誉ある撤退をさせて欲しい”と早く言えば廃業させて欲しいとの事でした。
ここが一番残念なところでした。

この頃は卸(問屋)不要論という事が叫ばれ、どこも卸が苦しんでいる中、”ウエダさんは本体が卸でも時代を見据えて早くから直販(我々の業界の直販は、ユーザー企業に売る事)をする子会社を作り、グループで見事に展開されている”と世間からは見られていたにも関わらず、実体はこの様に全くグループとして連携されていなかったのです。

人から必ず聞かれる事で、”ウエダなのにどうして岡村なのですか?”という事ともう一点は、”本社までが会社名ですか?”という事です。
この本社までが会社名である理由に実は衰退の変遷をみる事ができます。

1984年に4つの子会社をつくり、それらを管理する今でいうホールディング会社として、ウエダ本社は出来ました。
ウエダ本社の役割は子会社全ての資金面、経理面の管理業務で、それらの代行料と子会社から受け取るウエダという名の商標使用料が収入となっており、ウエダ本社は放っておいてもきっちり利益の出る会社になっていました。
この仕組みを作ったのはタタキ上げの創業者の祖父であり、祖父は全ての子会社の役員に一切入っていなかったのですが、私の推測ではこれは祖父なりの計算であったと思います。
祖父は創業者ですから、自分が役員で居ようが居まいが、統治には殆ど関係なく、それよりは、子会社を全て自分の身内でもない社員に任したという事の効果を考えていたのだと思います。
ところが、祖父が亡くなり、父の時代になると、その関係も微妙なものになり、まして子会社が黒字で赤字の本体を支えているという構図になると、色々問題が出て、父達が役員で入っていなかったことで、次第にコントロールが利かなくなっていったのだと思います。


私は自分で創業して、いずれこういうホールディング会社が統治したグループ経営というものを作りたいと思っておりましたので、少しは勉強していましたが、ウエダに入って昔の仕組みを見た際に、自分が考えていた理想形をかなり前に作っていた祖父に感心しました。
何せこの頃はホールディング会社というものは認められていなかったのですから。
これがいつの時代になっても、グループで連携してグループの何処かが引っ張るという関係にしていっていれば、ウエダは安泰であったかもしれません。

そんな体制でしたが、その頃には既に本体の文具卸は赤字であったのですが、多分それでは対外的にも示しがつかないから、管理業務や商標料で潤っている本社に入れ込んだというのが、現在ウエダ本社という名前で残っている理由です。
しかし、この事で赤字が隠れてしまい、赤字なのに危機感が無いという状態がその後ずっと続いていたのでした。

2007年12月19日水曜日

門川大作氏 京都市長選に出馬!

京都市長選に門川大作氏が立候補されました。

京都流でも御馴染みの今では”前”になってしまった京都市教育長です。
京都流では勿論、政治思想を論議するものではありません。

ただ、あくまで文化に対しても伝統に対しても、京都やそして日本に対しても正しいと思う事を発信していく場であろうと考えています。
それが、京都流サイトでは広告なども含め一切の収益を得ず運営している理由です。

その前提をご理解頂きながら、京都流の運営責任者の私としては門川氏を支持したいと思っています。
それは、ここでも何度か書いた事がありますが、格好や口先だけの人ではないどころか、TOP自ら率先して動いていかれる姿勢、あんな事ができる人はなかなかおられないからです。

私は常々、”文句を言うなら自分でやれ、自分でやれないなら人がやる事に参考意見は言っても文句を言う権利はない”と言っていますし、全てにおいてそれが私の正しいかどうかの判断、人を信用するかどうかの判断の基準です。

そういう意味では、門川氏は民間企業のTOPでもこれ程、思い切った事をできないと思うくらい強力なリーダーシップで京都市の教育を向上させて来られた方で、私の基準からして最も信頼のおける方だと思います。

民主党は独自で推薦したかった様ですし、国政のねじれから、自民党は他の候補も考えていたりもしましたが、単なる、相乗りではなく、門川氏のやって来られた事を知っていれば、そうなってしまうと思います。

門川氏は京都流もよく見て頂いていましたし、その方が市長になられたら、京都流の真に京都を愛する皆様方の声が、市長に直接届くことになるという事になりますから、皆さんもこれから益々、心して京都流に参加して下さいね!

2007年12月16日日曜日

ウエダ再興記⑯~ 京都にウエダあり

ウエダ本社は昭和13年5月私の母方の祖父である上田安則が、資本金5万円を元手に自転車5台を買い文具卸としてスタートした会社です。

この祖父は派手な事新しい事が好きで、今でいうキャンペーンガールをトラックの荷台に乗せて宣伝したり、飛行機からチラシを撒いたりという、昔では考えられないド派手な事をやっていたようです。

文具や事務機という業種の代理店というのは通常、地域代理店制ですので、ウエダは京都、滋賀の代理店であり、他の地区には同じメーカーの代理店がいます。
それら全国の代理店を集め、メーカーに向けて発言力を高めていこうと、いくつかの団体も祖父の呼びかけで作られました。
又、今でも事務機のウエダという看板を掲げていますが、昭和三十年代に事務機というものを業界に先駆けて持ち込んだ様に、常に新しい事目立つ事を考えていた様です。

私がウエダに入ってから各トップの方々にご挨拶に伺った際、"ウエダは昔全国区だった”という事を何人かの方に言われました。
私はほんの二、三年前にこれが本当だと気づいたのですが、これは決してお世辞ではなく、昭和三十年代後半から五十年代頃までは"京都にウエダあり”という感じで本当に輝いていた様でした。
余談ですが、ウエダで代表になってから、ある時シャープさんの会合に行った際、並居る大手量販店トップの方々にひけを取らないというかむしろ、こちらの方が丁重な扱いを受けた事に驚きました。
これは、シャープさんやカシオさんは計算機が切欠となって飛躍していかれたのですが、それを最初に取り上げていたのがウエダを含む、二、三社であり、その事を当時のシャープさんの上層部は分かっておられたので、現在いくら売上が多い量販店より、黎明期から商品を取り上げた会社を重要視してくれていたのです。

しかし、そんな派手好きで他人には気前の良い祖父は、私達身内からすると、全く面白みのない、ある意味冷たい人でした。
仕事の為には、身内でも平気で利用するという人で、母が亡くなる直前に言っていた話では、ずっと私の父との結婚を反対していた祖父がウエダで事務機を導入しようと思った途端、手のひらを返した様に、機械に明るかった父との結婚を勧め、父をウエダに引き入れたぐらいです。
私も普通の”おじいちゃん”などという感覚は全くなく、元旦にだけ会ってお年玉をもらうだけの人でした。
しかもお年玉を孫に渡した瞬間から、父に仕事の話をする様な、愛想も何もない人でした。
そんな人ですから、一見派手好きで外では派手にお金もかけますが、ただ単に使っているのではなく、凄く計算されていたのだと思います。

私も今まで、叩き上げの創業者を何人か見てきましたが、こういう人達は皆お金の使い方が大変うまく、生き金というか、使ったお金を絶対に死に金にしないという感覚をお持ちだと感じます。

この創業者上田安則が亡くなったのは、私が瀧定入社した年でしたので、仕事の話というものをした事がなかったのですが、特に会社を経営する様になってからは、あの愛想もくそもなかった”おじいさん”と仕事の話がしたかったなと思いました。

そんな叩き上げ創業者の祖父から”二代目”の私の父に継がれていくのですが、二代目はお金の事、数字の事が備わっていないケースが多い事に加え、見栄、体裁に拘る父の時代になっていくと、全国区のウエダも変調をきたしていったのだと思います。
そして先代が亡くなり父の時代になってから、数年間殆ど新たな手を打っていなかったのではないかとウエダに入ってから感じました。

しかしただ一つ行っていた大きな事が、私がウエダに入る事につながり、その後ずっと苦しむ事になる大失政でした。

2007年12月12日水曜日

皆様本当にありがとうございます!

昨日から出張に出ており、しかも、ネットに接続できませんでしたので、先程帰宅し、サイトを見て皆様の活発なコメントを見て驚きました。

そして、これだけ京都を愛されている皆さんが、京都流を通じて知り合って頂き、その事で盛り上がって頂いていて本当に嬉しく思います。

全てのブログ、お一人お一人にコメントを入れるべき所ですが、皆様へのお礼として
この場で書かせて頂きます。

ふうりんさんや雅撫子さん、勿体無いお言葉頂き恐縮です。

私は、他の事でもそうですが、場だけ作って、人だけ集めて、そうすれば何か始まるかもしれない、何か問題提起もできるかもしれないと、枠作りだけしているだけで、
大した事は何もできていません。
実際は、のぶを始め、スタッフ達が他にも仕事を持ちながらやってくれているお陰
です。

又何よりも、他にたくさんの京都サイトもありながら、低予算で編集なども素人で行なっている京都流を、マニアックにも愛して頂いている皆様方が、支えて頂いているお陰です。

ろぷさん、毎年の設営有難うございます。

hickeyさん、hickeyさんを見つけて輪ができるなんて、凄い話ですね。

busさん mittsuさん 橘さん、いつも色々サポートして頂き有難うございます。

yoojiさん 楓さん きょうこさん kyoppeさん  そして最近メインのlaviemarieさんも有難うございました。

受験者数は減りましたが、これだけ熱い方々がおられるという事を、商工会議所の方々は再度認識して頂いて、今回の受験者減をバネに頑張って頂きたいと思いますし、我々も、しっかり伝えていきたいと思います。

皆様、お好きな事とは言え、試験が終ってお疲れの事と思いますので、どうかご自愛下さいませ。

2007年12月9日日曜日

ウエダ再興記⑮~ ウエダ本社取締役就任

ウエダの方では、子会社の代表とその後何度か話をしました。

"ウエダに入って本社を立て直してもらえませんか?”切り離して欲しいと言っていたのに、何で?と思いながら、私は”そんな立て直すなんて大仕事は無理だし、そんな気持ちでいてくれるなら、それこそ私は親父を説得して、あなたに全権依頼するから、あなたがやって下さい。
それがウエダにとっても一番良い”とその子会社代表に何度も言いました。

しかし、その人はあくまで自分は子会社しか見る事ができないと固辞しました。
私は大変悩みましたが、やはり身内の会社ではあるので、ここまでの状況になってそれでも知らないという事はできず、とりあえず、週一日だけ非常勤の取締役としてウエダに行くという事になりました。
1999年3月小さい時からウエダには入らないと言っていた私が初めてウエダに関わる事になりました。

しかしだいたいこれが変な話なのです。
私は身内の誰からも頼まれたのではありません。
当時のウエダ本社は、代表取締役会長が父親、代表取締役社長が兄という体制であったのですが、父親は会長に退き社長に任すと言いつつ、肝心な所で決定をひっくり返すという世間でもよくあるパターンでその数年経過していました。
社長の兄は、私と違って温厚で、父親の言う事に従おうとするタイプでした。
ですので、通常は社長である兄が運営していますが、肝心な所で父親が裏返し、何も進まないという状態が続いていたようで、成績も悪化の一途で改革が打てないので、子会社の代表達が本社のアドバイザーとして権限を持っていました。
しかしこのアドバイザー達も、中に入り込んで火の粉を被ってでもという事でやっているのではなく、口だけの介入でしたので、誰も責任を持って物事に当たらないという硬直状態が続いていた様でした。

私は、このアドバイザー達に”立て直して欲しい”という要請をされ、その後どう決定されたのか、給料は10万円で良いですか?いつから来てもらえますか?という話も全て、子会社代表がして来て、最後まで父親始め、身内から入ってくれと頼まれたことはありませんでした。

その時点で自分の身内に対しても、色々思うところはありましたが、週一日でもやる限りは成果は出そうと思ってそれ程、気にはしませんでした。

私は瀧定で鍛えてもらったお陰で、仕事に対してはプロ意識というものを持っているつもりです。
感情がどうであれ、与えられた仕事、役割に対しては、それ以上の成果を出すという事を当たり前と常に考えており、この時もそういう思いでありました。

しかし、いざ入ってみると、自分の考えが甘かったのに気づきました。
会社の実体は数年間ずっと赤字、社内はやる気のない沈滞ムードが蔓延、経理から出てくる毎月の試算表は翌月の25日くらいに出てきて、しかも素人の私が見て、簡単に検算しても分かる間違いが平気である様な状態でした。

外からみるとウエダは子会社もあって、ウエダグループとしてやっていますが、いがみ合っているくらいの感覚で、全く連携が取れていない。
これはとんでもない所に足を踏み入れてしまったな・・これが正直な感想でした。

2007年12月8日土曜日

いよいよですね♪

明日はついにですね。

皆さん頑張って下さい!

あれ、他人事?と思われた方、鋭いですねぇ~。
私はサポーターとして応援しております(笑)

先日、格闘家の佐竹さんと食事した際、佐竹さんから武士と忍者の違いを教えてもらいました。
以前もここで話しましたが、佐竹さんは武士道精神を復活させないと駄目だとの思いから活動されていますが、武士と忍者の違いは、武士はその精神を重んじるのに対して、忍者は結果だけ上げれば良いということだそうです。

今武士道精神がなくなり、結果だけを残せば良いという忍者ばかりがはびこり、世の中がおかしくなっているという話でした。
武士は刀を大切にしますが、忍者は刀を踏み台に使って壁をよじ登っていくという様に、同じ刀を持って戦うにしても全く考え方、姿勢が違うわけです。

我々京都流は、何度も言いますが、決して京都検定受験用のサイトではありません。
京都を知り、興味を持ち、文化や伝統を知り、そこにある教えや残していかなくてはいけない意味合いなどを知り、伝え、残していこうとするものです。

ですから当然、忍者ではなく武士スタイルですから、試験の結果ではなく、受験される皆さん、楽しんで下さいね!

2007年12月6日木曜日

門川教育長 お元気そうで良かったです。

昨日、門川教育長にお会いして来ました。

少し落ち着きましたが、時の人であり、マスコミにも追いかけられておられたので、
心配しておりましたが、いつもと変わりないご様子で安心しました。

お忙しい中でも、先日私が書いた、精華大の牧野先生についてのブログも読んで頂いており、いつも教育長に会うと、あのお忙しい中でのご配慮に恐縮してしまいます。

表面上、単独指名をしたい民主党、先を越されて国政の絡みもあり、民主にすんなり乗れない自民党と、政治には面子があるのは分かっておりますが、誰の為の首長かという事を、各党は考え、大人の対応をして頂きたいと思います。

私の方は、いずれお話しますが、最近はある事に向けて大変忙しい日々を送っています。
その関係で教育長にもお会いしたのですが、その他にも京都のVIPな方々の所を駆け巡っております。

誤解無きように言っておきますが、決して選挙に出るのではありません。(笑)

2007年12月2日日曜日

ウエダ再興記⑭~ 身の回りの変化とIT系との接点

ウエダの流れとは別に私の方も色々な事がありました。

エムズカンパニー設立後丁度一年経った頃、阪神大震災がありました。
以前、阪神大震災被災記をこのブログで書きましたが、一人で独立して間なしでもあったので、事務所としていた自宅マンションも半壊となり、何も身動きの取れない神戸には居れず、京都に避難して仕事を続けてました。
その時にブログにも書きましたが、全然関係ない他府県の人々がボランティアで神戸に入っているのに、神戸で被災した自分が、仕事の為に京都に避難して、暖かい所に居てテレビを通して神戸を見ているという事に大変嫌悪感を感じました。
しかし独立して一年の私はこの時期に仕事ができなくなる事=会社を諦めなくてはならないという気がして神戸に残る決断はできませんでした。

その後、震災の前日に結納をしていた現在の家内とその年の秋に結婚し、三年後には長男が生まれました。
一人で何とか食べられるかどうかの時期に結婚し、子供ができると、当たり前ですが二人分、三人分の生活費を稼ぎ出さなくてはならず、独立という字の通り、独りでやっていくという事の大変さを充分に体験しました。
瀧定時代には”何事も自分のお金と思って判断する”という事を叩き込まれましたが
この時ほど、その意味を実感できた事はありませんでした。

lunaparkさんとはずっと貿易のパートナーで殆ど毎日やり取りをしていましたが、彼女がパリに移り住んでから、”私がパリでつるんでいる日本人女性のご主人の会社が、飛ぶ鳥を落とす勢いのある会社らしいよ”との事でした。
”K”という会社で、”ユードラ”というメールソフトの権利を取って凄いらしい。との事でした。
私の事を前職がIT系だと思っていて、ITリテラシーも高い様に思われている方もおられるのですが、実は今でもとても苦手で、特にこの頃は”ユードラというメールソフトどころか、メールソフトって何?というレベルでしたので、この話には全く関心を示しませんでした。”

ところがウエダが大変だとか、何とかしてくれと言う話が耳に入ってくる様になって来て、lunaparkさんに"そう言えば、前から言っていた人の会社一度紹介してくれる?”という事で紹介してもらう事になりました。

これがIT系との繋がりの初めで、ウエダとIT系を繋いでいく切欠になるのでした。

2007年11月30日金曜日

京都流社説 1万人割れ

何人かの方も書かれていましたが、今年初めて、受験者が1万人を割りました。

1級の受験者は大幅に増えたという事ですが、やはりこの、取ったらどうなるの?という事に対して充実させていかないと、これからも難しいのではないかと思います。

1級は人気しているという事は、今年又多くの1級取得者を生み出すわけで、最初の36名の方から含めて同じ枠の中で良いのか、それだけ多くの1級者は、京都検定では”アガリ”になってしまって良いのか?などたくさんの問題があると思います。

京都流としても検定取得者の活動の場など、働きかけは行なって行こうと思いますが、もう一度京都検定は何の為に行なうのか?を見つめ直す必要があると思います。

2007年11月25日日曜日

ウエダ再興記⑬~ ウエダを廃業させてもらえませんか?

今回の再興記は久しぶり?の海外、ベトナムからの寄稿です。
又、いずれベトナム(サイゴン)日記でも書くようにします。


ウエダにはその後、たまに訪問するようになりました。
いくつかの商品を入れましたが、ウエダで売れた商品はなかったと思います。

ウエダには一時期大変優秀な中国人が居ました。
父親が身元保証人になっていた人で、京都大学の経営工学の博士を取得していたのですが、ビザを更新する関係から何処かで勤める必要があり、ウエダで雇っていたのです。

私が何度か訪問するうちに、いつも彼からウエダの愚痴を聞く様になりました。
愚痴と言っても建設的な話で、経営工学博士ですから、改善策を次々に提案したり、
中国とのビジネスの話をするのですが、父親に話しても当時社長であった私の兄に話ししても全く進まないので、私に何とかできないかという話でした。

私もウエダに色々提案しましたが、染み付いてしまっている体質、社内的な問題なども垣間見ていましたので、ウエダで新しい事をやるのは無理だと思っていました。
ウエダでは新しい事なんてできないから、”諦めて私の会社(エムズカンパニー)とやって行きましょう”と言っていたくらいです。
その頃まではそんな他人事でいれたのでした。

ところがある時、子会社の代表者から相談を受けました。
ウエダ本社はずっと赤字でどうしようもないのに、又大変な失政を行なっている。
このままでは倒産すると思うが、それでは自分達も共倒れにはなってしまうので、
自分達(子会社)を切り離して、ウエダ本社は廃業させて欲しいというものでした。

それを聞いた時は、まだ何も対策を打たない間から、それはないだろうと思いましたが、私はウエダとは株主でもない、全く関係のない人間ですから、私には何の権限もありませんので、”オーナーである父親と話してもらって、父親が納得すれば私はそれでいいですよ”と言いました。

エムズカンパニーを設立した時でもそうですが、常に私の考えには、会社は誰の物か?会社とはどういうものなのか?という事がベースにあります。
エムズカンパニー設立時には、規模の拡大をするつもりはなく、小さくて独自性のあるビジネス展開をしようと考えていましたので有限会社に拘りましたが、まず会社とはどういうものか、どうしていくのかを考えて運営していかないといけないと思います。

そんな考えがベースですので、たまたま会長が父親で社長が兄であっただけで、一株も持っていない私は、全くウエダには関係のない人間なのです。
この基本的な事を分かっていない人が世間には多いというか、殆どの中小企業は間違っていると思います。

しかしこの意味合いがなかなか分かってもらえず、この後揉める事になっていくのでした。

2007年11月21日水曜日

マンガ学科と京都国際マンガミュージアム

昨日、京都精華大学のマンガ学科の牧野教授にお目にかかってきました。

牧野先生はマンガミュージアムの研究センター長も兼務されており、マンガ教育ともいうべき分野を開かれておられる方です。

大変お忙しい中、長時間お話を聞かせて頂き、私のマンガに対する概念が全く変わりました。
その際も申し上げたのですが、お話を聞いて感じたのは、マンガを描くには、右脳と左脳が両方使われないといけないという事です。

勿論、感性が良くないといけないですが、それに加えて、ちょっとした絵や、短い一言、擬音語などでその状況を見事に説明するという事は、それを実現するためには、全体を体系的に掴み、論理的に解釈もできないといけないわけです。

牧野先生はマンガで色々な表現ができるという事を示し、色々な道を切り開いていこうとされていますが、その切欠となったのは、その後、精華大の教授に迎えられた
竹宮恵子さんが、エルメスの社史をマンガで描かれたいたのを見られたからだそうです。

こんな事も日本ではあまり知られてないと思います。
あのエルメスが社史をマンガで作り、パリの店においているそうですが、そんな凄いことを日本人はもっともっと生かしていくべきだと思いました。

ましてや京都には、世界に一つのマンガミュージアムもあるのですから、今後こういう資産も有効活用して行きたいと思います。

2007年11月18日日曜日

ウエダ再興記⑫~ 営業代行とウエダとの関わり

体系的に展開できるビジネスを作らないといけない、そう思って言わば繊維業界に見切りをつけた私は、商社に出入りするという事を強みに、色々なビジネスコーディネートを行なうようになりました。

世の中には、凄い技術力を持っているが販売力がない会社、ネタは持っているが商品化できない会社がある一方、縦割りの中の一つの業界しか知らず、その中だけで永年同じアイテムを、全く同じアイテムを持っている多くの競争相手と狭い世界で戦っている多くの会社があります。

それらをうまくコーディネートするだけで、埋もれている商品が陽の目を見たり、余計な競争をしなくて良かったりするという構図が理解できていましたので、販売力のない会社の代わりに営業代行という肩書きで商社などに提案する動きを行なっておりました。

いくつもの、又様々な商社に出入りしていると、面白い事に色々な商品、情報が集まる様になりました。
そんな動きをする様になったある時、文具・事務機ルートに売れないか?という商品があり、創業して2,3年目かにウエダと文具・事務機業界に出入りする様になりました。

小さい頃から父親の会社には絶対入らないと言っていて、必要以上に親の世話になりたがらず、会社も全くウエダと関係なく立ち上げて来た私が、少し角が取れたのか、この頃初めて、折角ある父親のルートやコネなども利用すれば良いじゃないか?と思える様になりました。

いくつか私の元に持ち込まれたネタを、ウエダに提案をしに何度か行きました。
何度か提案しても話が全然進まない、面白い商品を取り入れようというやる気というか、意欲を全く感じませんでした。

”あんな状態じゃ駄目だ”ウエダの事で父親に初めて意見しました。
しかしその時点の私は、ウエダを何とかするという事ではなく、私に持ち込まれたネタを何とかモノにする事が狙いでしたので、他府県の同業者(文具卸)を紹介してもらい、いくつかの会社を回りました。
ところが、何処へ行ってもウエダとよく似た感じでした。
売りたくないの?と思う程、その商品のあら捜しでもしているかの様に、後ろ向きな質問、逆にチラシや販促物はどれだけ提供してもらえるか?という要望ばかりでした。
そんな完璧でフォローもしっかりしている商品なら、何処でも売れるし、そんな商品を扱ってもメリットないでしょ?
大体そんな商品なら私が持ってくる必要もないし、あなた方に相談に来ませんよ。
そこまでになってないから、面白いし、御社にとって有利な商品に仕立てられるんでしょ?
どこへ行ってもこんな感情になりました。(実際言ってましたが)

この体質がこの業界全ての体質であり、ここからの脱却が会社の命題であるという事を実感する様になったのは、後にウエダに入る様になってからでした。

2007年11月15日木曜日

出井さん

先日京都に元ソニー社長の出井さんが来られ、食事を一緒にさせて頂きました。

出井さんはソニーで創業メンバー以外で初めての社長に14人抜きで抜擢され、その後10年間社長を務められたのですが、ソニーの社長ともなるとご経験されて来た事が国を動かすレベルの話ばかりで、そのスケールの大きさと、その前に居て、経営者としての自分の知識など、本当にレベルが低いという事を痛感させられました。

そのスケールの大きさに反して、本当に気さくにしてご対応して頂けますし、御歳の事を言っては失礼なのかもしれませんが、70歳なんて信じられない、パワーと何よりも単純にダンディーで格好良い方です。

執行役員制度や、確かカンパニー制という仕組みも日本で最初にされたのは、出井さんだったと思いますし、ある意味日本の会社のあり方を変えて行かれた方だと思います。

こういう凄い方に会えると、たくさんのパワーを頂けて、向上心が沸いてきます。
経営していると日々悩みだらけと言っても過言ではないですが、あの様にスケールの大きい人になるには、こんな事悩んでいては”小さいなあ~”と思いました。
そう言えば、経営者はいじめられっ子の方が向いていると言われていました。
というのは、それ位、大変な事だらけで、それでも耐えられる忍耐強さがないととても持たないという事です。

再興記で告白していた通り、私はいじめられっ子ではなかったので、ちょっとマズイ
ですね。。。忍耐強く頑張ります。

2007年11月11日日曜日

ウエダ再興記⑪~ 有限会社エムズカンパニー設立

繊維という業界ではありますが、流通の大元に居て物の流れていく様子を見て来た後、繊維業界にはあまり関係なかった特許というものも勉強し、平成6年1月6日有限会社エムズカンパニーを設立しました。

この頃は会社を大きくする事は全く考えておらず、むしろ自分一人でもやっていけるビジネスモデルを構築し、小さい会社でも決して弱い立場にならない様なビジネスを行なおうと思っていました。
当時、ウエダ本社の会長だった父親からは、”有限会社なんて格好悪いから、株式会社にしろ”と言われましたが、体裁なんて必要のない、オリジナル性の高いビジネスをやらないと意味がないと思っていましたので、あえてその意思を表す為に有限会社にしました。
一人でも存在価値を示して相手してもらえる会社にする為には、体裁なんて必要のないモデル、商品を展開できなければ生き残っていけるわけがないと考えていたからです。

独自性の高いビジネスを行う為にまずは、輸入ビジネスから始めようと思いました。
と言っても英語も大して話せませんし、貿易など全く知りませんでした。
又、いくら描いているビジネススタイルがあっても、何もなければ食べてもいけません。

学生時代のアルバイトで一緒だった女性が、神戸の大手アパレルに行っていたのを辞め、イタリアに行っているという事を知っていたので、彼女の連絡先を聞き、連絡を取りました。
彼女のバイト時代の仕事ぶり等を考えると、海外に渡っても絶対、成果を上げているだろうなと思っていました。
連絡を取ってみると予想以上に活躍していました。
当時円高が進み、後には1ドル79円もつけた頃でしたので、日本のアパレルがこぞってイタリアに買い付けに出ていたのですが、彼女とその友達の所に、いくつもの日本の大手商社が仕事を依頼していたのでした。
商社も商品その物の目利きできるわけではないので、専門知識を持っていて、言葉も貿易も分かる日本人が居れば任した方が良いという構図になっていたのでした。

私は彼女に私の専門のテキスタイルを扱ってもらう様に頼み、彼女らにイタリア側の管理をやってもらい、イタリアから入れた生地を私が居た瀧定に販売しようと考えました。
この彼女というのが、京都流でも御馴染みのlunaparkさんです。

貿易は全く知りませんでしたし、お金もありませんでしたので、いくら元居た会社とはいえ、そのままやれば迷惑をかける事になるので、瀧定で話を決めた後、貿易事務とLC(貿易決済)を伊藤忠商事で行なってもらう様にしました。

私は伊藤忠商事と契約して、そこからコミッションを頂くというスタイルでスタートする事になるのですが、この時には本当に、あの嫌になった時期に瀧定を辞めてしまわなくて良かったと思いました。
もしあの駄目社員と思われたまま辞めていれば、まず元居た会社に出入りできていないでしょうし、伊藤忠商事が私の話にのって簡単に契約を結んでくれることなど有り得なかったと思います。

今から考えると、すごい事をやっていたと思います。
いくら、瀧定時代の実績や、瀧定との関係を分かってもらっていたとは言え、私が書いたメモだけで、伊藤忠商事が貿易相手に決済を保証してくれていたのですから。

そんな取引をしていきながら、貿易というものを勉強し、流れが分かった後は自社で直接輸出入も行ったり、雑貨などの輸入元となったりもするようになりました。

2007年11月8日木曜日

京都流社説~ 小沢代表と宮崎から見るTOPのあるべき姿

安倍総理の際も社説として書いていましたので、今回の小沢代表の問題も触れさせて頂きます。

安倍総理の際と同じく今回も、一体何なの??という感覚だけが残った出来事だったと思います。
前回も言いましたが、政治の世界の事ですし、まして小沢氏の考える事は、周囲の人でも分からないのですから、私などが分かる筈はないですが、ただ、小沢氏を見ていて昔から以下の二点を感じます。

それは、自分の描いている結果を得る為には、どういう形でも厭わないという点と、それを達成する為に一番最短でできる方法を取るという事です。

その考えているレベルが周りの人と違うので、周りには分からず、そこが小沢氏から見ると、レベルが低く見えて呆れてしまい、投げ出してしまう様な行動(言動)になるのではないかと思います。

ただ、安倍氏の場合と同じくTOPである以上、レベルが違うからと言って、”もう止めた”では困るわけで、そのレベル差を埋めていくこともやってもらわないと困ります。

又、いくら良い政策であったとしても、それはまず大原則は国民の為の政治である
訳ですから、国民不在で行なわれていく事が最大の問題です。
そこを偉くなられた政治家の先生方は、はき違えていると思います。

先週末私は宮崎に行っていました。
そこでは相変わらず、東国原知事の人気が凄いのと、驚くのはタクシーの運転手さんや一般の県民が、彼を支持していて全く悪く言わない事です。
こういう状況をみて、偉い先生方は感じ入って欲しいと思います。
タレント議員が・・なんて思っている国会の先生方がおられたとしたら、宮崎に行って、その様子を見聞きして欲しいと思います。

まず、県民(国民)主体でものを考え、何の為にそれをやるのか?という事を原理原則に基づいて行動していけば、いくら難しい国政でも、こんな風にならないと思います。

安倍氏や小沢氏は、TOPのあるべき姿という事がずれているのだと思いますし、今後TOPを目ざす政治家は是非、政策は勿論ですが、TOPのあるべき姿を勉強して欲しいと思います。

2007年11月4日日曜日

ウエダ再興記⑩~ 一生居たいか居たくないか?

瀧定の儲かる理由の一つに、アパレル等の話や情報を聞き、先読みして自分の所でリスクを抱え商品を作るという事と、営業員に企画をさせて商品作りをするという事があります。
私は元々、自社の商品では相手にしてもらえない先に行っておりましたので、企画をし、商品作りを入社二年目から行っていました。

通常テキスタイルの場合、1年位前から商品企画をするのですが、ある頃から売れ筋を当てるという事がどんどん難しくなっていくのに対して、当たれば、猫も杓子もがそれに集中し、折角出た売れ筋も、そのシーズンで潰してしまうという繰り返しを行うようになっていきました。

毎シーズンこんな事やってられないなという思いを持っている頃に特許というものに興味を持ちました。
こちらの世界では、一個開発すると、ずっとその権利で商売が出来たり、収入を得たりするわけで、それまでやっていた事とは対極の世界でした。
ビジネスというものは、もっと体系的に考え、その体系を見ながら流れを作ったり、組み替えたりしていかなくてはいけない、そう思うようになりました。

その頃年齢も29歳になっていました。
30歳という歳は男性も先々を考える年齢で、私もまず一生この会社に居たいか、居たくないかという事を考えました。
そういう視点に立ってみると、答えは即座にNOでした。
この頃はもう、評価もしてもらっていましたし、仕事も面白かったし、収入面ではかなり貰ってましたし、それ程の不満事項もなかったですが、一生は居たくない、なら、早く辞めた方が良い。
辞めた理由の一番はこの事でした。

大変厳しい会社でしたので、60歳定年という事は50歳では勝ち組、負け組みがはっきり決まっています。
50歳がゴールという事は40歳から急に伸びるという人も少ないですから、40歳で勝負はついてしまいます。
そう考えると、何て人生短いんだと思いました。
そういう中で30歳近くになると、自分の位置というのも大体わかりますし、このまま行けば勝ち組には入るだろうとも思いましたが、そうなったとして収入面は良かったとしても、それで幸せなのか?とこの時生まれて初めて、自分の人生について真剣に考えた様に思います。

私はいくら収入があっても、うまくいっても50歳で”アガリ”の人生なんて耐えられない、体が元気な間、自分の好きな仕事をしていける環境にしたい。
と、いう事は自分で起業するしかない、それが会社を興そうと思った切欠でした。

満30歳になる年の5月、7年強勤めた瀧定を退社しました。

2007年10月30日火曜日

エリックさん in ノートルダム小学校

先週の金、土とエリックジェイコブセンさんのショーをノートルダム小学校で行ないました。(こちらをご覧下さい)

何故、私がそんな事を書くかというと、実は、ノートルダムさんにエリックショーを提案したのが私でしたので、二日間お手伝いをさせて頂いてきました。

ショーの後の本、CDの販売から、エリックさんの誘導なども行い、エリックさん、ノートルダムさんの両側から大変喜んで頂いたのですが、逆に私の方が大変勉強にもなり、パワーも頂いた時間でした。

プロ意識というものをエリックさんに密着させて頂いて大変勉強させて頂きました。

ショー前には、かなり集中して練習をされます。
多分、何回もやられている曲で慣れられていると思うのですが、それでも決して手を抜かれない所や、金曜夜に4人で食事に行ったのですが、その後も1人だけ明日に備えるからと、ホテルに帰られる所など、プロというのは、セルフコントロールもしっかりされるのだなと改めて感じました。

エリックさんのショーを見ている子供達や、その後サインなどを貰って喜んでいる子供達を見ていると、こちらもこういう場を提供できたという事が嬉しくなり、子供達からもパワーを貰えた時間でした。

2007年10月27日土曜日

ウエダ再興記⑨~ 開き直った瞬間

怒られていた時期は、ほんの二、三ヶ月だと思いますが、この時期は会社へ行くのが嫌でした。
毎日、今までやって来た事を否定され、それに対して説明をしても一切聞いてもらえませんでした。
ある時までは反論しましたが、ある時期からはそれも無駄だと思い、何を言われても一切反論しなくなりました。
会社から夜遅く帰ってからは、マンションのベランダで一人でよくボーっと考え事をしていました。

どう考えても納得いきません。しかし誰もわかってくれません。
ドンドン考える内に、自分のやって来た事、あれだけ一生懸命仕事して来た事が馬鹿馬鹿しくなり、もう辞めようかと思いました。

駄目社員になって二ヶ月位過ぎた頃か、ある晩ベランダで考えていて、明日にでも辞めると言おうと考えた瞬間、自分の考えが逆流し始めました。
このまま辞めたら、結局自分のやって来た事は、皆が言っている様に駄目であったと認めてしまう事になる。
自分は、あれでけ一生懸命にやって来たのに、これで辞めてしまうと負け犬で終ってしまう。
それこそ、悔しいのではないか?
そう思うと急に考えが変わり出し、よしそれじゃ一度徹底的に売りまくってやろう、そう思いました。
これだけの事なのですが、これが開き直った瞬間で、翌日直ぐに、課長(部長兼任)に、今までの動きを止めて、瀧定がメインとするターゲットの売り先に担当を変えてもらう様に頼みました。

それからは売る事に徹しました。と言っても、元々瀧定がメインとしている層(量販店)に向けて、その層向けに企画をした商品を売るわけですから、私にすれば、この方が全然簡単でした。
何せそれまでは、来て欲しくないと言う所に行って、そこに合う”センスの良い商品”などないので、そこに合わせる為の商品を自ら作って売っていかなくてはいけないのですから、それまでの方がどれだけキツイ事をやっていたか分かりません。

そんな調子で売りに回ると今までと比べてホントに簡単に売れ、翌年には年間優秀販売賞をもらう様になりました。
そうなると今度は、”岡村は変わった”とか”よく頑張っている”と言われる様になりました。
その時点になって、あの頃私は、こういう様に考え、こういう事をやっていたのだと言うと、他人は初めて、なるほど、そう頑張っていたのかと聞いてくれる様になりました。

私はこの時期の経験で、他人というのはこんなものなんだという事を痛感し、これ以降仕事に対して、他人に対して、どんな事でも全て自己責任で考えるという事ができる様になりました。
又、この売れないという経験をせず、初めから瀧定のメイン層を持ち、よく売れるという経験を最初からしていたら、私の性格からすると、大いに勘違いをしていたと思いますが、この経験があったお陰で、上辺の事で褒められても、有頂天にはならず、会社の力や看板など、そういう背景の要因で、物の売れ方も違うという仕組みを理解する事ができました。

よく特に大企業などにおられて大変よくやっておられた人が、独立して看板が外れると、その時初めて自分の力で売れていたのではないという事に気づかれたりしますが、私の場合は、こういう仕組みを会社の在籍中に勉強できたのは大変大きな事だったと思います。

ニ、三ヶ月の駄目社員を脱却し、又認めてもらえる存在になりましたが、同時に私の中ではこれで、”やっぱり自分のやっていた事は間違いではなかった”という、自分の中でケジメはつけられたので、逆にもう、いつでも辞められると思うようになりました。

2007年10月24日水曜日

文化情報部会

私は京都商工会議所で文化情報部会という所に入っております。

今、私が行なっていることからすると部会名はバッチリなのですが、今日
その部会名そのものの、視察がありました。

朝から京阪奈地区にある、NTTコミュニケーション科学基礎研究所という施設で、
人間についての最先端の研究についてお話を伺いました。
これは、大変興味深いもので、人間の情報処理には、色々な錯覚があったり
して、人間というものはホントに面白いものだなと思いました。

その後、奈良の春日大社へ行きました。



ここの境内には三千基の灯篭があるそうです。
新しいものと年数が経った灯篭が混ざって寄進されています。



本殿で正式参拝をした後、


(本殿から)

貴賓室で昼食に中旬の献(ちゅうじゅんのこん)を頂いて来ました。



これは、神様のお召し上がりになった御供には、尊い御神気が篭められていて、
それらのお下がりを頂戴することによって神様のご加護に預かるというものが
響膳と言われるそうで、宮中と春日大社でのみ行なわれる旬祭の際に頂戴した
響膳を中旬の献というそうです。

今日は京都流ではなく、奈良流になってしまいました。

2007年10月20日土曜日

ウエダ再興記⑧~初めての挫折

私は元来、人の好き嫌いもハッキリしていましたし、正しいと思う事は相手が誰であれ、言っていくタイプでした。
社会人になってから、これではマズイなと思った事もありましたが、途中からは開き直って、性格を直すよりも、それを生かした方が良いと思い、幾ら気に入らないと思われても、それを常に上回る位やろう、誰にも文句を言えない位にやれば良いのだと考える様になりました。

そんな考えで意見をドンドン言い、それをずっと認めてももらってましたので、私の事を面白くないと思っていた人は多かったと思います。
それをある時期から、一気に感じる様になりました。

私があるシーズンのヨーロッパ出張から帰って来た月曜日、その日は出社した段階から、何か周りの雰囲気も違っていました。
しばらくすると、その出張中に、私の所属している課が二つに分かれる事になったのを知りました。
9年連続TOPの課で、その時点で営業員9人で70億円を売り上げる課になっていましたので、課別独立採算で競わせる瀧定の特徴では、これを二つに分割し、又競わせる形にするのです。
9人で70億と言っても、その間の私は、数字は目を瞑るから・・と託されて新規の動きを行なっていましたので、確か年間で3億強しか売り上げていませんでした。

最大の課に居ましたので、そういう動きをする余裕があったのですが、二つに分割され、そんな余裕など無い状態になると、岡村のやっている事はどうなっているのだ、全然数字が上ってないじゃないかと、私が出張している間になっていた様です。

それで出社した際に、周りの雰囲気が何か腫れ物に触るような感じであったり、今まで先輩でありながら、私に気を使っていた様な人が、何か、とげとげしい態度で接して来たりしたわけです。
それ以降、私の境遇は一変しました。
それまでは会社のホープであったのが、全く売っていない、ダメ社員の様な扱いを受けましたし、上司に認められていた私に、今まで何も言えなかった人達から、面白い程、手のひらを返した様に攻撃を受けました。

勿論、社長にも言われてやってきた展開であり、必死にやって来た私は、納得いくわけもなく、上層部にも今までの経緯、どれだけ一生懸命にやってきたかなどを何度も何度も説明しました。
しかし、誰一人、聞く耳を持ってくれませんでした。
あれだけ一生懸命仕事をして来て、梯子を外された、この時の悔しさは説明しようのないものでした。
しかし、今から思うと、こういう経験もなければ、いずれ経験する事になる、ウエダに入ってからの悔しさにはうまく対処できていなかったかも知れません。

このヨーロッパ出張というのも私が直訴して、一部反対もある中、一般の営業員としては、初めて行かせてもらった事からスタートし、毎年春秋にパリとミラノで開かれる展示会にいくものでした。
それだけに特に最初などは、成果を出さないと何を言われるか分からないとの思いで、安ホテルに泊まりながらミラノ、パリという地でも必死に働いていておりました。
今では多分、毎年大人数で豪華な出張となっていると思いますが、この頃の私はこんな感じで、今まで無かった会社の流れを作る為に、最も働いておりました。

しかし、突然梯子を外され、初めて挫折というものも味わったのでした。

2007年10月18日木曜日

Do you Kyoto ?

この意味をご存知でしたでしょうか?
ご存知の方は、かなり環境問題の意識が高い方か、京都のニュースに詳しい方か、ディカププリオのファンの方ではないかと思います。

私は知りませんでした。
これは昨日、門川教育長の所にお邪魔した際、教えて頂いたのですが、”Kyoto”してますか?
つまり、環境に良いことしてますか?という事であり、ディカプリオ氏が言って広まったという事です。
又、8月の終りにドイツのメルケル首相が京都での講演の中でも使われたそうで、環境に取り組んでいる人々の間では知られた言葉になっているそうです。

ところが、教育長も仰っていましたが、なぜもっと肝心の日本人、京都人にこの事を知らしめないのだろう、マスコミも取り上げないのかと思います。

この言葉、大変良いと思いますし、私も広めて行きたいと思います。
Kyotoしてましすか?これは議定書から関連付けられ、発想された言葉ですが、京都的なおもてなしや心配りができる人や、その事について、京都流してますか?
Do you Kyotostyle?という事も併せて提唱していきたいと思いますが、どうでしょうか?

2007年10月14日日曜日

京都文化企画室 秋の園遊会

今日は、京都流ブログにもご参加頂いております、西川充さんが理事長を務められている京都文化企画室主催の秋の園遊会に参加させて頂きました。

京都文化企画室は、西川流師範の西川充さんが、京文化を広く一般の方にも知ってもらう、親しんでもらう事を目的に立ち上げられたNPO法人で、こちらも京都流で持つ問題意識に対して、色々な活動を実践されているグループです。

今日行なわれたイベントも、殆ど普段は入る事ができない南禅寺の大寧軒



で、園遊会というものでした。

立礼でお茶を頂き



その後、庭で瓢亭さんのお弁当を頂きました。



西川さんの活動は、何だかんだ言っても、入りづらい、分かりづらい京文化を、ご自身は色々な分野に造詣が深いのに、他の方々へはホントに入りやすく、とっつき易くされているところが素晴らしいと思います。

私は、その主旨を過大解釈し過ぎたか、やはり無作法者か、今日はカジュアルな感じで行き過ぎて、ちょっとミスったかなとは思いましたが、それでも、心良く受け入れて頂ける、イケズではない会ですし、真に京都を好きな京都流の方々にとっては、
大変お得!な会だと思いますので、ご興味ある方は、入会されてみてはどうでしょうか?

2007年10月13日土曜日

ウエダ再興記⑦~遮二無二働く

その頃は特に遮二無二働いていたと思います。

通常でも夜の10時には機械警備になるので、絶対に退出しないといけない様になっていましたが、仕事が終らない為、朝から夜10時まで悲壮感漂う形相で仕事をしていましたし、入社3年目頃に土曜日も休みになりましたが、瀧定を辞めると決めるまでは殆ど土曜日も休んだ事はありませんでした。
それに加えこの頃は、特に全く相手にしてくれないどころか、来てくれるなというアパレルを開拓しないといけませんでしたので、何とか話を聞いてもらう為に、日曜日は、その開拓したいアパレルの店の観察に費やしていました。

瀧定の厳しさを実感した出来事で、ウエダにも関係する話をしますと、丁度私が入社一年目にウエダの創業者である私の祖父が亡くなったのですが、その日は土曜日で3時迄の営業でした。
祖父が亡くなって通夜にいくのに7時迄仕事し、部長にすいませんが祖父が亡くなったので、お先に失礼しますと大変恐縮して帰りました。
会社を出た後、祖父が亡くなって帰るのに、しかも3時迄営業で7時に帰るのに、何故こんなに恐縮して帰らないといけないんだと思いましたが、それでも悪いと思うくらい、皆思い切り仕事をしていたのです。

ですので、他の会社に出入りしたり、今までウエダに来てからでも、忙しいという事を聞いたり、同じ10時までやらないと終らないと言っていたりしても、表情を見れば直ぐ分かるというか、瀧定では、皆何かに追われて仕事をしている様に切羽詰って10時迄働き、休日も働いていましたので、全然甘いな~と思ってしまいます。
これは社員に対して厳しくなってしまうマイナス要因かもしれませんが・・

課別独立採算であるので、どこの課も主には東京担当、名古屋担当、大阪神戸担当に分かれているのですが、東京や名古屋の担当は毎週火曜日の夜から出張に出て、金曜日の夜に帰ってくるという生活でした。
私はその商社の中で生地(テキスタイル)のレディース部隊におりましたので、生地サンプルを毎週持って販売しに廻っていました。
今の様にキャリーバックはありませんでしたから、15kgもある荷物を持ち、毎週数十人で新幹線で出張に行っていました。
毎週火曜日の夜の最終近くの新幹線は15kg程入ったカバンが車両の間に数十個も置かれ、東京に着けば夜中の12時過ぎに重い荷物を持った軍団が割と近距離でタクシーに乗るので、タクシーにも嫌われ、かなり有名な団体だったと思います。

毎週出張と言っても厳しい、泥臭い会社ですから、ホテルに泊まれるわけでもなく、東京の場合は浜町の明治座前にある連絡所という自社ビルで皆寝泊りします。
6帖の部屋に3人、他の課のおじさん方と布団を並べて寝泊りするのです。
営業も車などは一台もなく、交通機関かもしくは自転車、それも豆腐屋さん(と言っても若い人は分からないでしょうが)の様な黒い頑丈な自転車が各課で2台程割り当てられているだけ、表参道でもその黒い頑丈な自転車で疾走するわけです。

そんな調子で毎週金曜まで働き、金曜日の夜に新幹線で帰ってくるという生活なのですが、この頃は殆ど帰りも最終9時(東京発)の新幹線で、何度か階段を重い荷物も持って駆け上がったら、無情にも最終の新幹線が発車して行った事もありました。

それだけ一生懸命働いていた私ですが、ある時どん底に落とされてしまいました。
この経験が実際のビジネスにおいての考え方に大きく影響をしていると思いますが、
この話は次回にさせて頂きます。

2007年10月10日水曜日

宇治人形-知られざる茶の木人形の世界-

先日も私のブログで、中・高の同窓ですという人がおられて驚きましたが、以前も私の祖父にあたる岡村楽山と茶の木人形について書いていました所、それを研究されておられる方から連絡を頂いたという、ネットの威力を思い知らされる出来事がありました。

その方は宝鏡寺の学芸員で花園大学で非常勤講師を務められている田中正流さんという方ですが、その方の協力で今月22日~12月15日まで、花園大学歴史博物館第二展示室において、上記の展示会が開催されます。(詳しくは<a href="#">こちら</a>)

これは宇治の方でも、もうご存知の方が少なくなった茶の木人形を、今集めて残していかないと記憶からも途絶えてしまうという事から開催されるもので、その茶の木人形の中で、岡村楽山はかなり重要な役割を担った様です。

私にとって本当に有り難い話ですが、この楽山という祖父は私の親父が若い時に亡くなった為、会った事もなく、親父からも殆ど聞いた事がなかったのですが、本来なら全く途絶えてしまう筈であった情報を、研究していて下さる方がおられ、私が全く知らない事を教えて頂けるのですから、これも本当に不思議な感じがします。

全く、ウエダにも、京都にも、伝統産業にも無縁で過ごして来た私が、ウエダに来て京都流というサイトを立ち上げ、殆ど父親からも聞かされた事がなかった祖父の話を、両親が亡くなってから、自分が立ち上げたサイトを通して知る事になったという、本当にすごい話です。

もしお時間あられる方は、一度見てみてください。
この祖父である岡村楽山がいなければ私も生まれておらず、という事は京都流も出来てなかったわけですから、そういう意味では京都流のルーツがそこにあるかもしれません。

2007年10月8日月曜日

DREAM TOY'S チャリティーコンサート

6日土曜日に、以前京都流でもご紹介した、伊藤タカ子さんのコンサートに行ってきました。
これは、伊藤さんの活動である、白血病や他の血液難病に苦しむ方々を支援するというNPO法人DREAM TOY’Sの1周年記念も兼ねた、チャリティーコンサートでした。

この活動は約9年前から、伊藤さんが地道に積み上げて来られたとの事ですが、このNPOの発起人には、裏千家大宗匠の千玄室さんや、門川教育長、堀場会長(正式には最高顧問ですが、私はそのまま会長とお呼びしているので)なども応援される大きなうねりになっています。

これなどは本当に、真剣に動けば、どんな事、人だって動かせるんだという良い証明だと思います。
私は伊藤さんの活動をほんの少し前まで知りませんでしたし、伊藤さんとはまだ殆どじっくり話したことはありません。
しかし、以前もブログ(こちらでご覧下さい)で書いたような経緯で、何か昔からこの活動に関わっていたような感じがしています。

これだけ真剣な思いで、これだけの人を動かし、これだけの動きにして行かれた伊藤さんには敬服致します。
又、堀場会長は全然知らない伊藤さんの熱意を感じ取られ、お忙しい中、話を聞く機会を作られ、この活動が有意義だという事から、門川教育長始め、多分行政関係にも働きかけをされたのだと思います。

私などの立場でも、最近、色々頼まれごとをされます。
頼む側は得てして、良い主旨なんだし、金額的にも少額だし、これ位は応じてくれても良いでしょう?という位の気持ちを持たれて来られます。(私も頼む側になるときはそう思いますから)
ところが頼まれる側からすると、そういう話をたくさん持ち込まれており、一つ一つへの協力は時間的にも、金額的にも大した事がなくても、全部に対応していると大変な事になるし、こちらを受けて、あちらを断るというわけにもいかないので、実はかなり大変なのです。
ましてや、堀場会長の場合など、国レベルの事から、たくさんの役職を担っておられますので、色々な事があると思うのですが、そんな中でも、まず、聞いてあげようという姿勢と、良い事については、自らが動いて協力されているという事に、やはり人間の器が違うなと、大変感服致しました。
堀場会長は私も本当にお世話になった、大尊敬の、大好きな方ですが、その堀場会長が、いつも京都流でその凄さを紹介している、門川教育長を誘われたとの事で、他の地域の事は知りませんが、こういう素晴らしいTOPの方々がたくさんおられる京都は、大変恵まれた地域だと改めて感じました。

肝心のコンサートも大変良かったです。
シャンソンというものは私は初めてでしたが、なかなかしっとりと良い感じでしたし、ゲスト出演された黄金井脩というアーティストが又大変素晴らしく、コンサートとしても充実した中身であったと思いました。

皆さんも伊藤さんとDREAM TOT’Sの今後の活動を応援してあげて下さい。
京都の事でもそうですが、人に知らせるというだけでも、大きな役割だと思いますから。

2007年10月6日土曜日

ウエダ再興記⑥~瀧定入社

大学卒業後ウエダに入ることを考えてもいなかった私は、瀧定という繊維商社に入社しました。

瀧定という会社は繊維関係の方であればまずご存知である、繊維専門では最大手の商社です。
しかし誰にでも知ってもらっていますが、繊維関係の方に元瀧定ですと言うのは、良く思われるか、悪く思われるか極端ですので、難しい面があります。
何故、評価が両極か、それは良く言えば、大変厳しい会社であり、悪く言えば、"えげつない"(関西以外の方分かりますかね?)会社だからです。
ただ言えるのは、商売を覚えるという事については、私にとって大変良かったと思いますし、ここでの経験がなければ今とても社長なんてできていないのではないかと思います。
当時から、いくつかの商社で、何故瀧定は儲かるのか?という事について、プロジェクトを組んで研究していた事もありますが、いくら机上で研究しても、あの中で育った人間にしか、本質は分からないと思います。

この瀧定の特徴の一つは課別独立採算というものですが、私の入社当時、確か売上は1900億円弱だったと思いますが、それは約80程の課がそれぞれ一つの会社の様に運営されていて、しかも社内の隣の課がライバルという関係で競っていました。

私は自分でもずっとラッキーな人間だと思っていますが、就職自体この瀧定が第一志望だった上、配属も、この競い合っている80程ある課の中で9年連続全社1位の課に配属されました。
瀧定という会社は同族会社ですので、一族で運営されているのですが、私の配属された課長(現在は副社長)はこれだけの成績を納めている人でしたので、社内では数少ないオーナーにものが言える人でした。

私が瀧定で良かったと思う点は、学閥など何もない完全実力主義であり、何もやらない人は置いていかれるが、やる人間は引き上げていく出る杭は伸ばす的な会社であったことです。
そんな会社でしたので、上司へのお世辞なんてとんでもない、相手が誰であれ、自分が正しいと思えばハッキリ言う性格の私にはピッタリで、新人のうちからドンドン新しい事をやらせてもらいました。

当時はバブル期に向かっていく頃で世の中では高級物しか売れない状況になっており、量販店向けに展開してきていた瀧定では苦戦をしだしており、そこに偉そうに、”こうすべきだ”と進言していた私が、高級ゾーンでアンチ瀧定的なアパレルの開拓役に任ぜられました。

これは約1300人程社員がいる中、当時の社長にも認めて頂いていた動きで、数字に大変厳しい会社の中で、特例も特例で個人の数字は目を瞑るから新規開拓をやってくれと託されたもので、私は意気揚々と仕事に取り組みました。

2007年10月3日水曜日

伝統文化プロデュース連 と 無心庵

先日、老松さんの大原にある茶室”<a href="#">無心庵</a>”に行ってきました。

これは桜橘庵でお会いした濱崎さんの活動と、それを応援されている老松の太田さんにお話を伺う為でしたが、まず、老松さんが独自で、大原の三千院近くにこれだけの立派なお茶室を兼ね備えたゲストハウスをお持ちであるという事に感服致しました。

街中の喧騒や、会社内での色々な”悩み”も忘れ、約2時間半、太田さんと濱崎さんに連の活動についてお話を聞かせて頂きました。

話を聞いて正に又”感服”という言葉がぴったりで、京都の、日本の伝統文化に対する真摯な取り組み、しかも一つでも、どれだけのお金と時間とクリアしていかなければならないハードルがあるのだろうと想像する程、大変そうなプロジェクトを、いくつも手掛けられ、それを又驚く事に、決してメセナ的に慈善事業で終らせていない所が、”感服”としか言い様がなかったのと共に、ちょっと私にしては珍しく自信をなくしてしまいました。
(活動の一端はこちらでご覧下さい。)

今まで、伝統文化や産業について、知らないのを良い事に、それを生かして、色々出入りして行ったり、言って行ったりする事が自分の役割であり、そんな風に客観的に見れて動いていかないと、京都は動かせられないでしょ?という事を思ってやって来てましたが、この様な立派なお茶室を持たれ、しかも伝統文化の本丸におられる方々が、決して上から物を見た感覚ではなく、伝統文化に対して、真摯に残していく事、広めていく事を行なわれていることに、ある種、気恥ずかしさと、私などが軽々しく論じていて良いのかという怖さも感じてしまいました。

どんな事でもそうですが、知らないと偉そうな事を言ってられるのが、レベルが上ってくると、その事をやっている人の凄さやレベルを感じる事ができて、物が言えなくなってしまう様になりますが、そういう意味では、私の文化度も底辺から少しレベルアップしたのかもしれません。(と、又直ぐにポジティブに考えますが・笑)

あまりにも色々あり過ぎて、連の活動とどうリンクしていけば良いのかは、今後又相談させて頂いて検討していこうと思いますが、それも含めて、伝統文化や産業に対する自分の立ち位置を再度しっかり考えていきたいと思いました。

2007年9月30日日曜日

ウエダ再興記⑤~ ホンモノ?の謙虚さ

しばらくの間イイ気になっていた私が、偉そうぶってはいけないと思う様になったのも悪達との付き合いからでした。
こういう付き合いをしていますと、色々な学校の悪達とも会うのですが、たくさん会っていく中である事に気づきました。

それは、どのグループででも、一番強いとされている人というのは、あまり偉そうぶらず、どちらかというと低姿勢とさえ感じさせる人が多いという事でした。

”粋がっているのは格好悪い事なんだ、ホンモノは謙虚な姿勢なんだ”と感じる事ができて、その後、自分の態度は大きく変わったと思います。
小学校二年の時の、社長は偉いのではなく役割が違うだけという事にいたく感動したのと、同じ種類の感覚だと思いますが、この経験が私の性格形成に大きく関わった二番目の出来事だと思います。

ヤンキー達との付き合いで勉強する時間は減りましたが、かえって集中できたのか、中学三年でも成績はまだ優秀で美術以外はオール5という成績でした。
当然、先生、親とも、有名進学校に行ったらどうだという話でしたが、ここでも進学校=坊ちゃんイメージが嫌だったのか、公立高校で良いと頑なに言って、府立高校に進みました。

この頃の京都は学区制で、住んでいる所で行く高校が自動的に決められ、私達の頃はそれも一校だけで選択の余地もなく、その高校に進みました。
ところが、この高校がとんでもなく、よく言えば自由、悪く言えば、勉強には全く向いていない高校で、休講はあるは、授業も一つの科目で、年間に何十時間と休める状態で、殆ど大学生の様な生活をしていました。
お陰で中学とは又違って、本当に楽しい高校生活でしたが、勉強はあまりしませんでした。
受験では辛うじて京都産業大学に入りましたが、その高校のレベルを表すかの様に京産大を70人受けて、受かったのが4人という惨憺たるものでした。

しかし、ここまでの経験は自分にとって大変良かったと思っています。
児童会長から、抗争や暴走に至るまで、その両極を知っている人自体少ないと思いますし、ずっとエリートで有名私立校、はたまた京大?と行けたとしても、これだけ面白おかしく経験もして来たことは大変良かったですし、学歴なんて関係ないと思っておりましたし、それでいて京産大なら充分だとも思っていました。

ところが京都との関わりを持っていき、色々な方々とお会いする様になって来てから、初めて学歴に対する劣等感を感じる様になりました。

中学時代の話もまだまだありますし、高校や大学時代でもとんでもない話もたくさんありますが、私の自叙伝を書いているのではありませんので、
又機会があればという事にさせて頂き、私の性格、仕事をやっていく上での考え方などに影響を与えた事として、次回からは少し社会人時代の話を書かせて頂きます。

2007年9月29日土曜日

京都創造者大賞

今日、京都創造者大賞2007の表彰式に行ってきました。
これは京都の都市格向上に繋がる素晴らしい取り組みを表彰しようという事で、京都府、京都市、商工会議所の主催で行なわれたものです。
応募総数219件から大賞1件と、もてなし部門、環境・景観部門、アート・文化部門、企業部門から京都創造者賞各1件の計5件が表彰されました。

実はこれに京都流も表彰!されれば嬉しかったのですが、応募しておりました。
が、見事に一次選考で落とされていました。

商工会議所からの出席要請もありましたが、どんなものが受賞されたのか直接見ようと思いましたのと、今までいつも都合が合わず入った事がなかった、会場の金剛能楽堂に入りたかった事、お祝いのお能、金剛流宗家の舞囃子”岩船”を見たかった事もあり、参加してきました。
1曲だけという事はあるでしょうが、文化度の低い私ですが、お能は意外に感じるものがあり、良かったです。

ちなみに受賞は大賞-NPO法人祗園町南側地区まちづくり協議会、京都創造者賞-もてなし部門は、鴨川を美しくする会、環境・景観部門はNPO法人KES環境機構、アート・文化部門は京都市交響楽団、企業部門が村田製作所さんでした。
それぞれの活動は年季が入っており、とても京都流の活動レベルではなく、審査結果には納得できました。

こういう活動を見ても京都は奥深いと思いましたし、京都流も年季の入った活動にしていける様、頑張っていきたいと思います。