2008年6月29日日曜日

ウエダ再興記(42)~ 京都流の成り立ち

”良い会社”にするという事については、ずっと悩んでいましたし、現在も悩み続けています。

ウエダに来た頃は、やる気ないムードが蔓延し、空気が澱んでいるという事を体験しました。
挨拶はしっかりできない、電話は、10回か15回かの呼び出しで、出なければ警告音に変わるのですが、これが普通に鳴っている光景でした。
電話に出るという事は、仕事が増えるわけですから、皆出たくないのです。
通常に営業をしている会社で、10回も15回もコールしても出ないということは、異常な事ですが、長年昇給もなく抑えられていて、どこに向かうのかハッキリしない
経営の下では、社員にしてみれば、余分な仕事などやってられないという心境だったのだと思います。

倒産の危機もある中、時間をかけている余裕はありませんでしたが、まずは挨拶について厳しく言いました。
今でも、挨拶については絶えず言っているつもりですが、最近では来られるお客様から、”よく教育ができてますね””皆さん気持ちの良い対応をされますね”と言って頂くケースも出てきました。
電話においては、まず3回以上のコールをする事はないと思いますし、1度も鳴っていないのに、電話に出るので、外からかけて驚く時もあります。

しかし、レベルが高い会社からすると、まだまだだと思います。
私は今では、その対応力の差は、社員の会社に対する誇りと、ホスピタリティーにつきると確信していますが、以前からも何となく、そう感じていました。

うちの会社でも形式的な挨拶はできる様になったかなと思った頃、京都検定の話を聞きました。
京都検定の元々の理念は、観光を生業としている京都が、まず京都人のホスピタリティーを高めないと駄目じゃないか?という稲盛商工会議所会頭(当時)の言われた事が源となっているという事でした。
京都を良くする為に、まずは京都の人が京都を知り、興味を持ち、自分達が住んでいる京都を好きになり、誇りを持つ事、これが京都検定の元々の理念であるという話を、当時の京都検定担当者から聞き、会社を良くする為に、考えていた事と全く同じだと思いました。
それなら、京都人のホスピタリティーを高めていく事を、目の当たりにして勉強しよう、そう思いました。

又、商工会議所という半分公的な機関では、その理念通りには行かず、歴史試験的になるであろうという事はこの時点でも想像できましたので、我々が民間の立場で、どこにも遠慮せず、その理念部分を応援して行きましょう、と話しました。

これが、京都流の成り立ちであり、京都流を始める全ての切欠でした。

2008年6月27日金曜日

小笠原敬承斎さん

昨日、ある会で、小笠原流礼法宗家の小笠原敬承斎さんのお話を伺いました。

宗家であり、このお名前ですので、年配男性を想像しますが、実際は綺麗な女性であり、それ自体が驚きですが、その小笠原礼法とビジネスマナーという事で、結構企業向け研修なども行われている様で、京都流の運営者という事と、企業向けビジネスを展開するウエダ本社の立場としても、大変興味深く参加させて頂きました。

又、私はいつも自分自身が、どうしてこうラッキーなのだろう?と思うのですが、行った際に空いていた席が、懇親会での講師のお隣の席で、多くの方の羨望の眼差しの中、かなり色々お話させて頂くことができました。

京都流や私共の活動についても、ご興味を持って頂けたと思いますので、又、コンタクトを取らせて頂けると思います。

小笠原流というのは、武家礼法からくる礼作法だそうですが、それが現在に立派に生かせるのだという事で、企業向け、学生向けにも広めて行かれている様で、京都流から私が教育に関わる様になった背景も、特別な話ではなく自然な事なのだと、再認識しました。

いくつも琴線に触れるフレーズがありましたが、”遠慮”というのは、現在使われている意味でいうと、少し消極的なイメージがありますが、本来はそうではなく、
その字の通り、遠くから慮る(おもんぱかる)という意味であり、自分のした行為で次の人がどうなるかを慮る、という事であるとの事でした。

この感覚は、京都だけのものではなく、武家礼法でも同じで、これが日本の心なのだという事なんですね。
何でも主張すれば良いという、これも悪い意味での欧米化が過ぎて、日本の文化が失われていくのは勿体ないという事を仰っていましたが、正に同感であります。

ウエダ本社でも、最近よく言っているのは、次の人の事を考えて(慮って)、
皆がバントで繋いでいく様な、集団にしようという事ですが、皆が本来の意味での
”遠慮”をできる様にしていきたいと思います。

2008年6月22日日曜日

ウエダ再興記(41)~ 良い会社にしたい

父が喜ぶ事を唯一できたのは、皮肉にも社葬を出せた事だと思います。
これより以前の”倒産”の危機の頃に亡くなっていたら、社葬どころではなかったですから、社葬を出せる様に立て直せた事で、一つ役割を果たせた様に思います。

サラリーマンからスタートし、有限会社で独立した頃は、自分の為だけに仕事をしていました。
その後、”公器”の役割もある株式会社の経営を担う事になり、身内の為、社員の為に仕事をする事になりました。
倒産寸前の会社で借金を背負い、文具業界、同業者の組合、グループ内、はたまた自社内でも悪役を担うなどという事を誰の為、何の為にやるのか?を理解してくれる人は殆どいませんでした。
”お父さんならそんな事はしないだろう”よくそんな事も言われました。

”そりゃ、お金(数字)の事や、社員の事を考えず、体裁ばかり考えていれば、良い格好もできるよ”
”大体、私が全面的に悪役をやらなければいけないのは、誰のせいだと思っているのだ”
何も知らない他人にはこんな事も言えず、余計に父の事を腹立たしく思いました。

赤字会社にして、社員達にもしわ寄せをしていたのは、紛れもなく父のせいであり、しかもこの時点では完全勇退もしておりましたので、社葬を行なう事についても初めは消極的でした。
しかし、幹部や関係する人達からも、”社長や今後のウエダにも関わる話ですよ”と言ってもらい、大勢の方々にお越し頂いて、社葬として送らせてもらう事ができ、これで私としても自分の気持ちに区切りをつけられた様に思います。

この時点では会社の危機は遠のき、負の遺産も処理をしていける様になっていましたので、この頃初めて、父が見栄、体裁で行なってきたことにより、京都の多くの方々に知って頂いている事も資産として捉えられるようになりました。

社葬に向けて、以前一度読んでいたのですが、祖父が書いた”ウエダ雑記”という本と、”わたしと事務機”という父が書いた本を再度それぞれ読みました。
以前読んだ時には、それ程感じなかったのですが、この時には、昔ウエダが輝いていて、素晴らしい会社であった様に感じました。
同時に、それだけ素晴らしい会社でありながら、倒産の危機に直面する様な会社になってしまい、長年昇給もされず、沈滞ムード漂う会社に成り下がってしまっていた事を大変悔しく思いました。

そしてこの頃から、株式会社は公器の役割があるから・・という様な形式的なものではなく、昔のウエダの様に輝きを取り戻したい、不遇の中残ってくれた社員達が、残って良かったと思える会社にしたい、社員達が自分の身内、知人に誇れる様な素晴らしい会社にしたい、そう強く思う様になったのでした。

2008年6月15日日曜日

ウエダ再興記(40)~ 新ウエダ本社と父の死

ウエダシセツという子会社は、ゼネコン等の下請けで、自前で設計チームを持ち、オフィス内の設計・施工を行なっていました。
ウエダ本社は、事務機だけを残してスタートしましたが、ネットワーク・通信、それにWEB関連など、ソリューションビジネスも手掛けておりました。
それらを合体させると、オフィスの事が設計から、工事、備品販売、通信・ネットワークからWEBまでを一社でサポートできるディーラーになるのです。

又IT系の会社に関わった際の人脈から持ち込んで来られる商材もあり、これらを組み合わせていくと、他にはないオフィス向けディーラーとなっていけると確信していました。

数字面においては、ずっと勝負所の連続でしたが、合併前の2003年4月の半期決算で、ウエダ本社は1500万、2期連続赤字に陥っていたウエダシセツも500万程の
黒字となり、合併後の新ウエダ本社第一期目の2004年4月には、経常利益6200万円
を上げる事ができ、ここで初めて”倒産”という文字を遠ざける事ができました。

その翌期に当たる2005年3月、前会長である父が亡くなりました。
死という事では全く突然でした。
父は脳梗塞で3度も倒れ、少し手足に不自由が残っていたものの、命は問題がなかったのですが、少しボケもあり、代表を降りた後、完全勇退をして自宅におりました。
と、言うより、それも私が決断し、そうさせました。

これも大変辛い決断でした。
黒字転換したとは言え、それは経費などを切り詰めて、出来た黒字転換であるので、まだまだ余裕などありませんでした。
そこに、中小企業でよくある様に、オーナーだから、同族だからという理由で、何もしていない人に給料を払うという事は私にはできませんでした。
というよりも、リストラ役で入って来た私はそんな事はしてはいけないと思っていました。

しかし、片側では、息子として、ろくに世話ができるわけでもない負い目もありました。
母は芯が強い人で、”私ら何とでもなるから、あんたは仕事に専念してウエダの事を立て直してくれるのが一番や”そういつも言ってくれていました。
悪いけれど、もう父にも辞めてもらので、給料は払えない、後は退職金で生活してくれるか?この問いかけにも母は快く応じてくれました。

この退職金も顧問税理士が言われる、常識範囲の5分の1程度にしました。
厳しい様ですが、”実際倒産していたら退職金どころか、責任追及をされている立場であるので当然だ”、父親の失政の処理をして来たウエダ本社の代表取締役として、ろくに世話をできない息子としての負い目を、振り払う様に言い聞かせていました。

晩年ボケもあって昼夜が逆転し、毎晩夜中に起きてはテレビを見ていたのですが、ある早朝、リビングのソファーからずり落ちて亡くなっているのを母が発見しました。
朝、5時半頃だったと思います。
電話を受けて病院へ行きましたが、私が駆けつけた頃には全て終っていました。
何とか倒産という局面は防げましたが、父にとっては、私の行ってきた対応は良かったのか、一度も聞く事はありませんでした。

2008年6月12日木曜日

瓢亭 朝がゆ

今年はイベントに掛かりきりでしたので、イベントとウエダ再興記以外のブログを殆ど書いておらず、ちょっと書きづらくなっています。

という事で、久しぶりに京都ネタを軽く入れさせて頂きます。

昨日、ある会の朝食会で、瓢亭さんの朝がゆを頂いて来ました。



朝がゆと言っても、お粥だけではなく、このたまごが又名物らしいですね。



お粥はダシを入れて頂くのですが、上品な味で大変おいしゅうございました。

朝からこんなものを頂くと、気分もゆったりとして、いつもと違う意欲というか、
良い感じの一日のスタートができました。

それにしても通常は10名強しか参加していない朝食会ですが、今回は瓢亭さんという事で23名の参加でした。

2008年6月8日日曜日

ウエダ再興記(39)~ 再起業計画書

第二の創業と言っている会社はよくありますが、私からすると、単に危機意識を訴える為に言っている所や、今儲かっているけれどそこから変革をしていかなくてはいけないという意味で使っている所が多い様に思います。

ウエダの場合、私の場合は、本当に第二の創業でした。
売上50億円強あったグループを解体し、10年近く実質赤字であったウエダ本社と、2期連続赤字で売上も半減してしまった、ウエダシセツという子会社を統合し、全体では四分の一の規模からスタートするわけですから、掛け声だけで言っていれる
状態ではありません。

長年赤字のウエダ本社に来た時から、やる事はシンプルに、経費を洗い出し、得意、不得意、強み、弱みを分析し、少しでも得意、強みを見つけ、そこにウエイトをかけていく、それだけの事でした。
”オフィスに向けての総合的なコンサルを目指す”そう掲げて、どういう業態にもチャネルを持っているという文具や事務機業界の強みを生かし、そこに独特の繋がりのあるIT系のネタを持ち込んで提案していけば、相手の無い存在になれる、そう確信していました。

しかし一番苦心したこと、今でも苦心していることは人の問題です。
そういう意味ではベンチャー企業などは羨ましく思う時がよくありますが、私の価値観、方向性を示し、それに賛同してくれるやる気のある人々が集まってくれれば、どれ程精神的なストレスもなく、やりすいか?と思います。

しかし一方では、今居るメンバー達が、やる気のない状態、考えない状況にしたのは、今までの経営が悪いのであり、それを行なって来た私の身内に責任があるので、今居るメンバーが駄目だから、辞めさせて新たな人を採るという事は、責任逃れであると思います。
今居るメンバーの価値観、考え方、やる気を変えて行って、会社を変えて行かなくてはならないという事が、最も大変な事であり、この問題にずっと取り組んで来たと言っても過言ではありません。

2001年5月、文具卸をジョインテックスに移管した後、残ったメンバー全員に、再起業計画書というものを作って配りました。
それは、まずは厳しい状況で一緒に頑張ってくれる社員達に、私の考え、どこに向かおうとしているのかを示すべきだと思い、それらに対しての現状分析と課題、今後の予測などを綴りました。

独立した頃は、自分の利益だけを考え、会社も大きくするつもりはなく、拘って有限会社にしていた私が、その後考えてもいなかったウエダに入ることになり、
数々の問題を、四面楚歌の状態で切り盛りする中、父親にまで梯子を外され、馬鹿らしくて辞めようと思った頃には、私が引くと、社員達始め色々な人に迷惑がかかる状況になっており、自分だけ逃げるという事はできませんでした。

この時初めて、自分以外の人達の為に経営することになったのですが、この時から、会社は誰の物か?何の為に経営するのか?という価値観が自分の中で大きく変わった様に思います。
現在社員で共有を図っている、”ウエダの指針”や”ウエダベーシック”というものも、この再起業計画書をベースにしたものですが、この様な考えになって行った事が、その後、京都流を立ち上げる事にも繋がっていった様に思います。

2008年6月1日日曜日

ウエダ再興記(38)~ 合併と第二の創業

2002年10月期にウエダ本社は黒字転換しましたが、まだまだ勝負所は続きました。
子会社である、ウエダシセツがどんどんジリ貧になっていたのです。
この会社は、ゼネコンや工務店の下請け的な仕事で、オフィス内のレイアウト設計から、間仕切り、内装工事などを行っている会社で、長年、良く言えば堅実ですが、売上は約10億円で”少しだけ黒字”を続けていました。

前社長は、コンピュータ代表と共に親会社の”名誉ある撤退”を迫って来た人ですが、自分の意思というよりはその方が得策と踏んでいただけであろう事もあり、2002年1月に任期満了という形で退任してもらいました。

建築など又々、全く分からない世界でもあり、まだまだウエダ本社も立ち上がったばかりで他の事に時間を割く余裕もなかった事、この会社は別運営すべきと思っていた事もあり、後任は専務(現在、ウエダ本社専務)にお願いしました。
しかし、”現場は責任を持つが自分は社長はできない”との事で固辞された為、ウエダ本社の副社長兼、ウエダシセツの代表取締役社長に就任する事になりました。

この頃には長年10億と言っていた売上は7億に落ち込んでおり、その中身も粉飾や、不良債権も含まれていました。
建築業界では、受注時と中間期、完了時で3分の一づつ伝票を切るケースが多く、数字が苦しい際には、決まっているからと伝票を先切りし、それがその通りにならない事から、不良債権というよりは処理できずに、結果粉飾となっている債権がいくつか残っていました。
今後、”伝票の先切りはやらない”という事を徹底した事もあり、売上は5億に一気に萎んでしまいました。

10億で少しだけ黒字を”数字上”続けていた会社ですから、それが7億、5億と一気に萎むと、蓄えもある会社ではないので、こちらはこちらで一気に倒産か、廃業となる状況で、とても名前だけ社長で別運営などと悠長な事を言ってられる状況ではありませんでした。
私も正直な所、いつも自分の知らない事はやりたくないし、他にまだまだ問題に取り組んでいるので、誰かにやってもらいたいと考えるのですが、後退局面の時期は、強いリーダーシップで処理していかないと結局、傷を広げ手遅れになるので、自分で管理、指示できる様に、ウエダ本社と統合合併する事にしました。

この間、実際は2年前から全て舵取りは行なっていたウエダ本社の社長にも、2002年5月に正式に就任し、統合の準備を進めました。
決算期を変更する事もあり、合併後の新会社は創業と同じく5月1日からとすべく4月決算とし、2003年5月~本当に第二の創業というべき、新ウエダ本社をスタートさせる事にしました。
それ故、2002年に黒字展開したウエダ本社も、2003年4月の半期決算で又赤字では合併も認められにくくなるので、黒字は絶対の状況下で、何とか黒字を死守し、息つく間もなく、2003年5月~の新ウエダ本社はこれが失敗すると、今まで行なって来たリストラ計画全てがパーになると言っても過言ではない状況でスタートしたのでした。