2019年5月26日日曜日

日本人の忘れものから1000年紡ぐ企業

今週は京都新聞主催の「日本人の忘れもの知恵会議」というイベントに登壇させて頂きました。

基調講演が、大阪大学総長、京都市立芸術大学理事長も務められた、哲学者の鷲田清一さんという高尚なイベントで、その鷲田さんともパネルディスカッションでご一緒させて頂くという有難い機会でしたが、鷲田さんのお話と絡めると、近景(家族)中景(地域社会、学校、会社、組合など)遠景(国家)という中で、中景がやせ細ってしまったのが大きな問題という中で、私は会社という中景をどの様に強くしていくか?という事について、それに繋がる実践を行なっている者という役割だったのかと思います。
そもそもは共催者でもある、地域企業宣言というものを出した、”京都市地域企業未来力会議”の策定メンバーでもあるのですが、中小企業という規模の優劣ではなく、地域と共に継承発展する地域企業を目指していくべきというこの宣言の主旨は、正に中景を強めていく企業宣言と言えると思います。
鷲田さんは、繁華街でもない住宅街に、仕出し屋と和菓子屋さんがある京都の街並みが好きだと仰っていました。
私もそんな意識は持っていなかったのですが、これは寄合の名残で、昔は各町内で寄合がしょっちゅう有り、そのおもてなしをするのに、町内に仕出し屋さんと和菓子屋さんがあったという事だそうですが、町内や地域で、商売は持ちつもたれつお互い様という事で成り立っており、それゆえ、経済と文化、芸術もリンクしていたという事でした。
それが、効率追求や、それこそ規模の大きさの競争ばかりの経済一辺倒で推し進めて来て、地域が崩れ、文化、芸術も繋がりを無くして、危うい存在になって来たのでしょう。
昨年私自身、これが”THE京都のビジネス”なのか!と、初めて感じた出来事がありました。
それは、お香の老舗企業である松栄堂さんのオフィスを手掛けさせて頂いた時で、良かったと評価頂くと、本当に有難い事に、”オフィスはウエダ本社に頼んで良かった”という事を、全員に言って頂いていたのではないか?と思う程、言って頂いていて、京都の老舗企業というのか、街中(まちなか)では、こういう関係性で成り立っているのかと感じたのです。
ここでは、お互い様という関係や、地域での循環がベースにあり、値段だけで関係性を変えたりせず、それだけに信頼が大事で、他府県から来られた方が、京都は商売が難しいと言われる所はこういう所にあるのだと思います。
しかしその京都でも、残念ながら、殆どはモノの値段だけで競争させて一円でも安く買う、経済一辺倒の社会となってしまっています。
当然ビジネスですから、甘い事だけ言ってられない面があり、厳しい姿勢が素晴らしいとされているのですが、どういうスパンで見るか?によって、短期的に正しくても、長期的に見れば信頼を無くし、大きな損失になる事も多いと思いますが、日本人の忘れものというテーマを京都新聞さんが取り上げて来られていたのも、京都では忘れ去ってはいけないという事なのだと思います。
今週あったクオリア朝食会では、以前もご紹介した、衝撃的に幅広い見識をお持ちの能楽師安田登先生にお越し頂き、能とサステナビリティについてお話頂きました。
世阿弥は、能を未来に残す事を考えて、家元制度や、天才に依存しないシステムを作り上げた、とのお話でしたが、同様に、大きくしないという選択をし、それゆえ、お客さんに寄り過ぎないスタンスを取り、期待や欲求が高まり過ぎない様にしていたり、「陰陽の和するところの境を知るべし」と、昼は静かに、夜はアップさせるなど、色々なものをゼロの状態に向ける様にしていたそうですが、伝統というのも、今使われているニュアンスではなく、ある意味、誰でもが未来に継続させていくことができる仕組みの様なものという事でした。
この能でも、世阿弥から数えると”まだ”650年という中、土曜日には第四回となる京都市の”1000年”紡ぐ企業認定の授与式が開催されました。
こちらでは第一回から審査員を務めさせていますが、これまでは、何せ”1000年”と掲げてしまった為、当然それだけ、親しまれないと駄目でしょうし、継続という事からすると、事業性もしっかりしないといけない、そしてソーシャルというくくりなので、利益から入っている所は違うなど、毎回、どこを軸にしていくか?の審査の基準が難しかったのですが、漸く、纏まって来た感じがしました。
それこそ継続していって段々価値が紡がれていくのでしょうね。

今週だけでもこれだけのイベントがある京都は、やはり経済性を追求して来た中でも、その行き過ぎた違和感を何となく感じている様に思います。
大きくしない、そこで勝負しないという選択から、”中小企業”という意識を改め、肌感覚で中景を強めていく必要性も感じて”地域企業”という宣言を出し、そんな中から1000年紡いでいく、未来に残そうとする企業、プロジェクトを作っていこうとしている所は、数千年というスパンの中で、自己の利益一辺倒に行き過ぎたものをゼロに戻していこうとしているのかもしれません。
そういう意味ではやはり、日本の伝統を残していくエコシステムを持っているのは京都なのだと思いますし、揺り戻し役をしっかり果たしていかないといけないと思います。
そして、やはり同じ想いだと改めて感じた京都流議定書を今年も行います。
例年よりかなり遅れておりますが、これまではキャスティング、構成は、私の方で外部の協力者と全て決めていっていたのですが、今年は二日の内の一日を町衆ではないですが、スタッフに自分達のイベントとして企画してもらいます。
ウエダ本社が、大事な日本人の忘れものを考えていく”京都”という社会と繋がると、スタッフは町衆となり、自ら行動、運営する市民、国民となっていく事、そんな転換をしていく事が、日本人の忘れものをまだ感じる事ができる京都の役割ではないかと思います。

2019年5月19日日曜日

ウエダ本社してまんね。

今週は、今年で解散となる盛和塾で、京都塾としてはどうするのか?について、過去の代表世話人に説明する顧問会がありました。
京都は発祥塾だけに難しいですが、やはり稲盛塾長の意を汲んだ結論になればと思います。

先日ある方のSNSで、その稲盛さんのお話が投稿されていましたが、改めて感じた事と、この感覚がウエダ本社での展開なども説明しやすいので、纏めてみたいと思います。
ご覧になっておられない方はこちらをご覧下さい。

ここで一番のポイントは、関西以外の方は文字だけで果たして意味が伝わっているのか?とも思いますが、河合隼雄さんが書かれていた「あんた花してはりまんの?わて、河合してまんね」というくだりで、稲盛さんも、これで自分の役割と存在を理解でき、その後利己的なエゴを無くし、利他的な発想に転換できたと仰っている点です。

大変不遜に思われるでしょうし、全然できてないので、偉そうに言うな!と言われると思いますが、実は私もこれに近い感覚がベースになっていて、特に数年前から明確に、この感覚を意識して展開しています。

自然の摂理に則ってというのは、稲盛さんだけでなく、これまた尊敬する伊那食品工業の塚越会長もよく仰いますが、私も、この世に存在するものは、人間であれ、花であれ、そして会社であっても同じで、自然の摂理に従ってその存在を、命を使って全うしていくものだと思っています。

ですから、「あんた花してはりまんの?わて、河合してまんね。」
というニュアンスは、”めっちゃわかる〜”となるのですが、そもそも自分の意志で生まれて来た人などいないので、今の姿はたまたま花となったり、河合となっただけで、それはこの世の中での役割を果たす姿なのだと思うのです。

稲盛さんも、稲盛和夫の能力は個人のモノではなく、与えられたモノなので、それを世の中に対して使っていくのが役割と思われたという事ですが、これは稲盛さんだけの話ではなく、皆に共通した話だと思います。

数年前から明確になったというのは、それこそ盛和塾京都で代表をさせて頂いた際に改めて、自分自身の役割や強味を考えてみると、人を繋ぐ事、特に、NPOやソーシャルなど世の中を変えていこうとする人たちの能力と熱意を、最大化できる様に繋げていく事が岡村の役割であり、その強味を、ウエダ本社という存在を使って少しでも大きな事にしていくのが、命を使っていく使命なのではないか?そして、ウエダ本社としても、それが役割であり、それを行なっていく事で存在意義ができるのではないかと思ったのです。

そう考えると、稲盛さんの様な事はできないと思っていたものが、岡村でも、勿論、ウエダ本社の皆それぞれにも役割、出来る事はあり、ウエダ本社は、それを実現していく装置とも言うべき場であろうと思ったのです。

そんな話を、ウエダ本社でやって来た展開と照らし合わせて頂くと、何となくご理解頂けるのではないか?と思いますが、よく、本物とポーズでやっている所の違いという話もしますが、これも、この考えで見てもらうと、その違いを感じてもらえるのではないか?と思います。

そもそもの存在や社会に対しての役割から考えて展開している所と、自社からスタートして、CSRにしろ、SDGsにしろ考えていくのは似て非なるもので、多大な利益を上げ、多額の寄付したとしても、海外含めて取引先、環境などに対して多大な負荷をかけて自社だけが上げた利益だとしたら、それは賞賛されるべき企業とは言えないと思いますし、それでいて、又、SDGsをやらないといけないというのは、全く、滑稽に見える話で、存在から考えている本物とは全く違ってみえます。

稲盛さんの記事を見て、折角、この意味も理屈ではなく分かっていたのに、行動が中途半端で情けないなあと感じた今週でしたが、改めて、「岡村してまんね」、と言える様にそして岡村と共にそこに集う人がそれぞれ、「〜してまんね」と言えて、それぞれがその役割を増幅する装置としてウエダ本社を使い、その事が「ウエダ本社してまんね」とスタッフ皆が言える様にしていきたいと思います。

2019年5月12日日曜日

SDGsで嗅ぎ分けて

長い休みも明け、令和の仕事始めとなった今週ですが、いきなり米中貿易戦争は泥沼化していく様相を見せ、北朝鮮はミサイル発射するなど、不穏な幕開けとなりました。
日本では、ロシア、韓国との関係も悪化していくばかりですし、イラク問題、イスラエル問題も、これまでとは違う展開で、中東がより複雑化していきますが、それを進めている張本人の米国大統領と”蜜月関係”、と言っていて良いのか?も含めて、政治的にはどうしていけば良いのか?私自身も分からないのが正直なところです。
ただ、やるべき事は、自分の立場から世の中を良くする為に、次の世代に向けて少しでも良い環境を作っていく事しかないと言うか、それが自分自身の存在する意義だと思っていますし、会社もその役割を果たしていく事が、会社としての存在意義であり、だからこそ存在する価値があるのだと思っています。
そんな中、今週もウエダ本社とUtena worksには、素晴らしい想いと能力を持った方々が、面白い話を持ち込んで来て頂いていました。
これらに関わっているスタッフは、日々新しい事が入って来たり、加わったりするので、本当に大変かと思いますが、これを整理して、我々のリソースと関連付けて構築していく事が、この大変厳しい世界情勢の中で、日本がどうしていくのか?ウエダ本社グループがどうしていくのか?という所に繋がる事ですので、その役割を果たしていくという事を、意気に感じてもらいたいと思います。
これから二年間、京都経済同友会の例会部会長を担当する事になり、経済界において猫も杓子も状態ですが、SDGsをテーマに上げる事にしました。
これまでも色々な事でありましたが、本質的な事を全く理解もしていないのにポーズで行なうという事がありますが、SDGsもその様相を呈しており、それをやらないと儲からないから、相手にされないから、という様な感覚で、何を揃えればいいのか?というピンと外れな話が、立派な企業、経営者の中でも普通に話されていたりします。
CSRよりもタチが悪い事に、17項目のテーマでは、どんな企業でも解釈の仕方ではやれる事になりますから、そのマッピングだけで、形式的に評価を得る為だけに進めるという事になりかねないので、京都経済同友会では、形式的なポーズではなく、少しでも実質的な気づきを持ってもらえる様にしたいと思います。
本来は、自社が何の為に存在するのか?どんな価値を世の中に提供するのか?から考えている所ではあれば、自ずと展開する事ができ、その視点から立脚する所が、しっかり仕組みを回していけば、SDGsは効果あるものになると思いますし、うちのスタッフなどにもその視点で考えて欲しいと思います。
最近、プラスチックごみの問題が騒がれていますが、これも氷山の一角で、この問題でもまだまだ知られていない事だらけでしょうし、これ以外にも、限界に近づいていながら隠されているか知られていない問題だらけでしょう。
そこに世界情勢を重ねていくと、一番大変な事に陥る可能性があるのが、特にこれまでの価値観で安穏としている日本ではないか?とさえ思うのに対して、自分の圧倒的な能力不足を感じるので、最近、加速度的に色々な人や団体と連携していっている原因だと思います。
そんな理由からですので、決して自分自身や自社の地位や名声の為に行なっているのではないという事を、スタッフやステークホルダーの皆さんに共有と宣言をしたいと思いますし、共通課題を見ている方々には、ドンドン集まって来て頂いて、一緒に力を合わせていきたいと思います。
自社の儲けの為や、ポーズだけの所には騙されてる時間もないですから、嗅ぎ分けて、結集して参りましょう!

2019年5月7日火曜日

令和元日から

令和という時代が始まりました。
今週は、世間では10連休、ウエダ本社は9連休という事で、活動からの話ではありませんが、何故9連休にしたか?から始めると、令和元旦となる5月1日は、ウエダ本社の創業記念日であり、元々は出勤日としていたのですが、日が近づいてくるにつれて、休まないといけない感じになってきた為、4月27日の土曜日を出勤とし9連休としました。
天皇の生前退位による皇位継承というのは202年ぶりとの事であったり、令和という元号が、確認される限りでは初めて日本の古典から選定された事など、日本の歴史を感じ、起源を考えるにおいて素晴らしい機会であった様に思います。
宮内庁によると第126代の天皇との事ですので、実在性が確定していない神武天皇から繋がるとされている事になりますが、そうであれば2600年以上、古事記や日本書紀での神武天皇の存在がどうか?を疑ったとして、現在の皇室の源流とされる継体天皇から数えても1500年以上も続く、世界最長の王室となる日本は、今後も、天皇との関係性から国の有り方を考えていく事になるのでしょう。
今回の生前退位の問題や、女性天皇の問題は、現在の国民の象徴という存在においては、直接どの様に関係するのか?私も正直これまでピンと来ていなかったですが、これだけ長い歴史の中で、長いスパンで見た時には、日本という国をどの様に位置付けて、どの様に先々の時代に繋いでいくのか?を、天皇や王室との関係から、大局的な見地に立って考えないといけないのだと思いました。
バブルがはじけて、大量生産、大量消費モデルからの転換を求められながら、脱却できずもがき苦しんでいる所に、いくつもの大災害に見舞われた平成期に、国民に寄り添うというお言葉の通り、災害地にも必ず訪問され、毎回、被災された方々と膝を突き合わせて声をかけておられた前天皇は、象徴という何も手を下せない中で、もがいている日本に対して、その姿勢で、強烈なメッセージを送っておられたのではないでしょうか?
今回、教科書の世界でしかなかった、生前退位による継承と、上皇という立場をライブで見せて頂く事によって、これだけの繋がりの中に今在る事を改めて感じましたが、そんな事も国民に考えさせる、感じさせる機会を作られたのではないか?とも感じました。
ふとそんな事も考えながら、令和元日はウエダ本社にとっても81周年でしたが、創業を振り返り、その源流を見ながら、大きな存在ではないながらも、歴史で振り返った際には、ウエダ本社が、日本の企業環境において、何某かの役割を果たしたと残る様な存在となる様、想いを馳せて82年目に臨んでいきたいと思います。