昨日は、医療と宗教を考える研究会というものに出席しておりました。
清水寺の大講堂(この存在も知りませんでしたが)にある、洗心洞という部屋で、宗教家、大学の先生、経済人が集まって、論議するという、それだけでも面白いものでした。
今回は、クオリアでご一緒させて頂いている、現在は国立社会保障・人口問題研究所所長で、前京都大学副学長の西村先生と、同志社大学の篠原先生の対談と、それを聞いての討論で、テーマは
知足と経済学というものでした。
初めの西村先生のお話で私が最も印象に残り、ノートにぐるぐるに印をしたフレーズは、”分からない事に耐える力”という言葉で、それがずっと弱っていっており、今後の日本人には、これが重要ではないか?というお話でした。
この分からない事があるという事を宗教家が説いていかなくてはならないのでは?という事も仰っていましたが、その通りだと思います。
今起こっている現象は、最終的に良かったのか、悪かったのか、何の為に生きているのか?そんなに辛くて、嫌な事なら、何故やらなくてはいけないのか?又、反対に、嫌な事から逃れて、楽しい事だけしようとするなら、生きている意味はあるのか?など、色々な事を考えてしまいます。
私自身、不思議でしょうがないのですが、何故か宗教心が強いというか、死生観が強く、何の為に生きているのか?何の為に会社経営を行なうのか?何の為の仕事なのか?など全ての発想はそこから来ているのです。
所詮、誰にも、1秒先はどうなるのか、いつ死ぬのか、そして死んだらどうなるのか、は一切分かりません。
その中で人は、何故か当たり前の様に、自分には天災などは降りかからず、何故か平均的な寿命まで生きると勝手に思っているのです。
そこが最も大きな誤解?で、ここの教育(宗教観なのか死生観)をしっかり行なえば、自分だけの利益や損得を考えて行動する事が如何に意味がない事か、ましてや他人の事を妬みなども絡んで、自分はできもしないのに批判したりする事が、如何に下らない事か、不平不満ばかり口にして生きている事が如何に勿体無い事であるかが分かると思うのです。
そして、死んでからどうなるかなどは、予測すらできないのですから、大きな枠の事などは分からない事だらけなのです。
参加されておられた、私が最もその感性が好きな堀場最高顧問もやはり、西村先生に、"このフレーズは貰う"と言われる位、気に入っておられました。
学生時代からずっと原子物理学の研究一筋で来られ、世の中に証明できない物は無いと考えてこられた堀場氏が、36歳で医学を勉強され、分からない事だらけの人間を前にし、世の中には分からない事だらけなのだという事が分かって、それが自分の全ての原点だと仰っていましたが、それが堀場最高顧問の人間的な幅と深さとなっているのだと思います。
分からない事に耐える力が弱いから、不安になって分析していき、証明できないとより不安になり、それは時には悪い事とされてしまうのです。
分からないという事へ耐えうる力を持つには、必ず死ぬ、必ず壊れるという無情を受け入れる事だと思いますが、それが知足にも繋がっていくと思います。
この話も深いので、また、続きは書きたいと思いますが、だからこそ、こう生きるべきと目指す方向は私なりには持っているつもりなので、その辺りも是非又書かせて頂きます。
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