2011年7月18日月曜日

尾角光美さんから感じる、生きている意味

一昨日尾角光美さんが大阪の應典院というお寺で行なった講演に参加して来ました。

尾角さんは、幼少の頃の裕福な家庭から、二度に渡るお父さんの事業の失敗、そのお父さんが郵便局強盗を起こすにまで至り、長年うつ状態であったお母さんは、尾角さんの大学入学直前に自殺されるという凄まじい経験をされて来られました。

そんな彼女の経歴は知っており、彼女が自死遺族のケアや、元々は亡くなったお母さんにメッセージを伝えるという事であった母の日に、お母さんへの思いを寄せた母の日の手紙プロジェクトなど、
Live on として行なっている活動も知っていて、何とか協力できないか?と関わってきておりました。

ただ、今回初めて、彼女が行なっている活動と、考えを体系的に聞いて、全体の繋がりが良く分かったのと共に、改めて彼女が元々持っていたのであろう能力と、ひょっとして彼女に課せられた過酷な体験は、能力ある彼女に、この役割をさせる為に与えられた事ではないのか?とさえ感じました。

たまに、"若い人の面倒を見ていて偉いね”などと言われる事もあるのですが、私はこの様な若くて頑張っている人が大好きで、自分が何らかの役に立てばと思っているだけなのです。

と言うと何か、格好良い感じでそれも嫌なのですが、実は”やってあげてる”などという感覚ではなく、むしろ、本当は彼ら、彼女らの様に自分自身がやりたいけれど、そこまでやる勇気も度量もないので、それを託しているというか、自分ではできない事をやっている彼らに憧れ、ある意味、羨ましがっている面さえある様に思うのです。

そんな事を考えていると、私も自分自身の事が分かってきました。

今まで他人から質問されて一番困っていたのは、趣味は何ですか?という事でした。

本当に無趣味というか、しいて言えば仕事なのですが、それを言うと面白みの無い人と思われますし、しかし、趣味で日々の生活が充実したとしても、何か物足りなさを感じるので、それに没頭して・・という気にならなかったのです。

イベントしかり、世間でいうCSR的な事しかり、もっと言えば会社運営もそうなのだと思いますが、全ては、生きている意味というのか、生きていたからには、自分が存在したという意味を求めて行なっていた様にも思います。
そして、自分でできない様な凄い事を行なっている若者達を見て、彼らの熱い情熱と、能力を羨ましくも思い、そこに関わる事で、自分自身の生きている意味を求めていたのかも知れません。

尾角さんの話を聞いていて、そんな自分なりに求めて来た事が初めて分かった様な気がしました。

そう考えると、益々、尾角さんの存在や役割は凄く大きいものだと思いますし、という事は、誰よりも”生きている意味”を持った凄い人生を歩んでいる人なのだと感じました。

そんな今まで自分でも分かっていなかった事を分からせてくれたのも、彼女の役割だったのかも知れません。

充分には彼女の凄さは紹介できませんが、京都流議定書三日目、来られる方は是非、直接感じて下さい!

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