2011年6月12日日曜日

日本的、アジア的な宗教観から

昨日は、京都流議定書三日目と連動させた企画である、よせ鍋講座の二回目で、難病支援などの活動を行う深田君と、ハンドサイクルの輸入などを行う尾形君の掛け合わせでした。

私は残念ながら、彼らの話を聞いた後、その後のディスカッションには参加せず、会社に戻りました。

会社では、昨日期限で各チームで擦り合わせをし、各自まで落とし込んだ行動計画を出してもらう事になっていたのですが、帰社後提出してくるものが、まだまだ考えきれていないものが多く、それぞれにコメントしていると、終電近くの時間になっていました。

今日は、テラルネッサンスの総会が、うちの会社で行われていたので出席するつもりでしたが、よせ鍋のメンバーでもある尾角光美さんが、山折哲雄先生が基調講演されるシンポジウムでパネリストで出る事を知り、そちらにも顔出しする事にしました。

残念ながら、尾角さんの出番と、テラの総会後の小川新理事長と鬼丸君のトークセッションが全く重なっており、尾角さんの出番は見る事ができず、会社に行きました。

よせ鍋メンバー達のピュアな思いと、それぞれに行動を起こしている点は単純に尊敬できるし、何とかうまく行って欲しいと思います。
そして、その中の尾角さんなども、テレビで特集を組まれたり、お坊さん達が彼女の講演に集まるという存在になり、山折先生と同じ舞台に立つなど、目覚ましい活躍で、嬉しい限りです。

テラルネッサンスの小川君と鬼丸君の話を聞くと、流石に10年以上活動を続けているだけに、さらに一格上と言った感じで、彼らには後に続くNPO、社会企業家達のシンボリックな存在になって欲しいと思いますし、よせ鍋のメンバーには、それを追いかけ、世の中の為にも、次のレベルを目指して欲しいと思います。

今うちの会社で多大な時間を掛けて行なっている事は、 "考える事" です。
それは、逆に言えば今まで考えられていなかったので、"考える"という事を経験、癖付させようとしているのです。

昨日、今日の間にも、これら社会企業家達と、うちの社内を見比べてみると、この差はどうして生まれるのだろう?

どうして、社会企業家達の方が、それぞれ大変な課題に取り組んでいるのに、イキイキと楽しく行なっていて、彼らに比べたら、全然大した事でもないのに、仕事となると、辛く、苦しいもので、深く考える事もしなくなるのか?

うちの会社でも、自分のやりたい事から考え、3年後、5年後のありたい自分から考え、目標を考えて欲しいとしているのに、考える事が苦しい事になるのか?と考えさせられました。

決して能力の問題ではないと思います。

山折先生のお話を聞いても、この様な差は、生きている使命感を感じられるか?という事と、人間は必ず死ぬ、永遠はない、という無常観を持っているかどうか?であり、だからどう生きる?という発想ができるかどうかなのだ思います。

日本人が本来持っているアジア的な宗教観を忘れていった事が色々なミスマッチを起こしているのだと思いますし、日本人の元々持っていた良き価値観を再興しなくてはならないと思います。

実は山折先生にも、一回目の京都流議定書でご登壇頂いておりましたが、それが一回目から流れている京都流議定書のベースの考えなのです、と、最後は又宣伝になりました。

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