2007年12月23日日曜日

ウエダ再興記⑰~ グループ経営とウエダ本社

非常勤で少しでも役に立てばという気持ちで入ったのですが、計算や話が違う事ばかりでした。

まず、私が入ってからすぐ、この人が居れば助かるとあてにしていた経営工学の博士である中国人が、実は辞めたいと言って来ました。
中国に居る一人娘さんが又優秀で、ピアノで引っ張りが来て、アメリカかカナダの大学に国の特待生で行く事になり、娘さんについて行きたいとの事でした。
そんな事を止めるわけにも行かず、いきなりブレーンを無くしたというか、大変な状況の中、一人残された感じでした。

何とか立て直して欲しいと言っていた人たちは、私が入ってからは一刻も早く血を止めないと総倒れになるので、本社を”名誉ある撤退をさせて欲しい”と早く言えば廃業させて欲しいとの事でした。
ここが一番残念なところでした。

この頃は卸(問屋)不要論という事が叫ばれ、どこも卸が苦しんでいる中、”ウエダさんは本体が卸でも時代を見据えて早くから直販(我々の業界の直販は、ユーザー企業に売る事)をする子会社を作り、グループで見事に展開されている”と世間からは見られていたにも関わらず、実体はこの様に全くグループとして連携されていなかったのです。

人から必ず聞かれる事で、”ウエダなのにどうして岡村なのですか?”という事ともう一点は、”本社までが会社名ですか?”という事です。
この本社までが会社名である理由に実は衰退の変遷をみる事ができます。

1984年に4つの子会社をつくり、それらを管理する今でいうホールディング会社として、ウエダ本社は出来ました。
ウエダ本社の役割は子会社全ての資金面、経理面の管理業務で、それらの代行料と子会社から受け取るウエダという名の商標使用料が収入となっており、ウエダ本社は放っておいてもきっちり利益の出る会社になっていました。
この仕組みを作ったのはタタキ上げの創業者の祖父であり、祖父は全ての子会社の役員に一切入っていなかったのですが、私の推測ではこれは祖父なりの計算であったと思います。
祖父は創業者ですから、自分が役員で居ようが居まいが、統治には殆ど関係なく、それよりは、子会社を全て自分の身内でもない社員に任したという事の効果を考えていたのだと思います。
ところが、祖父が亡くなり、父の時代になると、その関係も微妙なものになり、まして子会社が黒字で赤字の本体を支えているという構図になると、色々問題が出て、父達が役員で入っていなかったことで、次第にコントロールが利かなくなっていったのだと思います。


私は自分で創業して、いずれこういうホールディング会社が統治したグループ経営というものを作りたいと思っておりましたので、少しは勉強していましたが、ウエダに入って昔の仕組みを見た際に、自分が考えていた理想形をかなり前に作っていた祖父に感心しました。
何せこの頃はホールディング会社というものは認められていなかったのですから。
これがいつの時代になっても、グループで連携してグループの何処かが引っ張るという関係にしていっていれば、ウエダは安泰であったかもしれません。

そんな体制でしたが、その頃には既に本体の文具卸は赤字であったのですが、多分それでは対外的にも示しがつかないから、管理業務や商標料で潤っている本社に入れ込んだというのが、現在ウエダ本社という名前で残っている理由です。
しかし、この事で赤字が隠れてしまい、赤字なのに危機感が無いという状態がその後ずっと続いていたのでした。

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